日本とドイツ、戦後の変遷 <1>



 衆議院議員選挙が過ぎ去り、ひとしお寒さが身に染む毎日だ。あの選挙という儀式は、むなしいものだった。むなしい儀式のつけは今後の日本に露骨に現れてくる。結局民衆がそのつけを負う。
 毎日、寒い日が続く。朝は氷点下9度の日もある。今朝はマイナス3度ぐらいか。暖房代が高くなる。18リットルのポリタンクを持って、ストーブ用の灯油をホームセンターに買いに行き、ついでに書店で雑誌「世界」一月号を買ってきたのは四日前だった。「未来を選択する選挙」を特集していたのに、買うのが遅れてしまった。幸い本は数冊店に残っていた。
 豊科の街の中を行くと、四階建ての新市庁舎の建設が進んでいる。午前10時、工事現場からボンタン姿の作業員が十数人道路際にたむろして休憩をとっていた。脚が二、三本入りそうな太いズボンをはいている若者がいる。寒空の下で、焚き火にあたるのでもなく、空き地に立って、工事の合間のわずかな休息だ。この人たちも、工務店が雇った非正規の作業員だろう。

 「世界」一月号のもう一つの特集は、「戦後70年 歴史改ざん主義とたたかう」である。70年という歴史の節目にたって、日本はどんな国になってきたのか、その論はぼくを引きつける。
 読み始めてみて、改めてこの時代の日本の姿から浮かび上がる問題の重大さがひしひしと伝わってくる。
 フランス文学者の西谷修は、「重なる歴史の節目に立って ―戦後70年と日本の『亡国』」を論じている。
 日本と同じように敗戦から出発したドイツと、その後の日本とは、差異が大きくなってきた。ドイツと日本の歩みが違って当たり前だが、歴史への向き合い方や、未来に向けて近隣諸国とどのように関係を築いていくかという点で、国の歩みがあまりにも違いすぎる。その違いが、日本はどうも危険な方向に向かっているのではないかという危惧をいだかせる。
 2014年は第一次世界大戦から100年目にあたり、ヨーロッパではさまざまな記念行事が行なわれた。戦争に勝った国と負けた国とがあり、記念行事は戦勝を祝うのではなく、対立の過去を超え、抱き合い、今日の平和と共存を確認する日として、行なわれた。フランスの大統領とドイツの大統領が式典に参加した。激戦地のノートルダム・ド・ロレットでは、フランス、ドイツ、ベルギー、イギリスの犠牲者58万人の名を刻んだ記念碑が披露された。
 2015年は第二次世界大戦終結後70年目にあたるが、今年の6月はノルマンディー上陸作戦の70周年になり、盛大な式典が行なわれた。そこには戦勝国も敗戦国ドイツも参加した。ロシアのプーチンも列席した。
 第二次世界大戦のもうひとつの主戦場だった東アジアではどうだろう。関係国が一堂に会する式典が一度でも開かれたことがあるだろうか。南北朝鮮の分断は相変わらずつづき、各国間の和解はいっこうに進まず、むしろ対立が深まっている。
 そこに歴史認識問題がある。さかのぼると、根源は明治以来の日本のアジア政策に至る。日本は「帝国」として植民地支配を展開し、戦争によって権益と勢力圏を拡大した。アジア太平洋戦争では、日本の派兵によってアジアの国々の国土が戦場になった。日本軍が侵略した国は戦場となり、その侵略によって陰惨な被害が生じた。アジアの国が日本に攻めてきたのではない。被害と加害の関係は明確である。
 和解をするためには、日本がその加害の責任を認める必要がある。それがまずあって、誇りも信頼も生まれてくる。しかし、日本はそれを嫌がり出し渋ってきた。
 最近の日本では、戦争責任を極力否認しようとする「歴史修正主義」者の勢力が、「戦後レジームからの脱却」を掲げて、勢いを増してきている。彼らの攻撃の核心が「慰安婦問題」である。そういう人たちが今や政権をになっている。
 哲学者で東大教授の高橋哲哉氏の論文が掲載されている。「極右化する政治」のタイトルである。そのなかに紹介されている自民党政治家の主張は、驚くべきものである。
 2011年4月、国会で『日独交流150周年にあたり日独友好関係の増進に関する決議』が採択された。ところが国会議員の高市氏は、その決議のなかの日独共通の「他国に多大の迷惑をかけたこと」や「戦争への反省」という表現に反対している。高市氏の論は、産経新聞『正論』に掲載された。高橋哲哉氏はこう述べている。
 「(高市氏は)『開戦権や交戦権という戦争権はすべての国家に認められた基本権』なのだから、その基本的権利を行使したことで『多大な迷惑をかけ』たとして『戦争への反省』に言及することには問題がある、というのです。決議案原文には『両国は、その侵略行為により』との表現もあったのですが、あらかじめそれは削除させたうえで、なおこの表現でも認められないとして、安倍氏や麻生氏を含め当時の自民党衆議院議員116人のうち50人弱が反対や棄権をするという異常事態となりました。侵略の立場を否定する立場が歴然と現れたのです。
 同趣旨の決議は、ドイツ連邦議会でもなされました。調べてみると日本の国会決議に先立つ1月26日に採択されています。ところがこちらのほうは、日本の国会決議と同文ではなく、はるかに長くて詳細であって、『ドイツと日本は侵略と征服の戦争を戦い、隣国の人びとに多大な犠牲をもたらした』と述べ、『第二次世界大戦は、1945年、両国の無条件降伏と政治的また道義的な破局のなかで終結した』と明確に記しているのです。ドイツと日本の国会議員の歴史認識の違いが、ここにはしなくも露呈してしまっています。
 こうした安倍政権の異常性が国会であまり意識されていないことについては、ジャーナリズムの追及が弱い、いえ、追及以前にほとんど報道さえされていないことが大きな要因になっているでしょう。‥‥日本の多くのメディアは政府に対する監視者の役割を放棄しており、事態は深刻です。」
 
 今日の朝日新聞の「オピニオン」紙面で、社会思想家、白井聡氏が「大人になり損ねた日本」という意見を書いている。
 「『日本人は12歳の少年のようなものだ』、占領軍のマッカーサーはこう言いました。戦後69年を迎えたいまの日本人はいったい何歳なのでしょう。
 このところの『日本人の名誉』『日本の誇り』を声高に言い立てるヒステリックな言論状況をみていると、成長するどころか退行しているのではないかと感じます。どうしてこんなに『子ども』になってしまったのか。戦後日本が、敗戦を『なかったこと』にし続けてきたことが根本的な要因だと思います。日本の戦後は、敵国から一転、庇護者となった米国に付き従うことによって、平和と繁栄を享受する一方、アジア諸国との和解をなおざりにしてきました。多くの日本人の主観において、日本は戦争に敗けたのではなく、終わったことになった。冷戦が崩壊し、日本の戦争責任を問う声が高まると、日本は被害者意識をこじらせていきます。悪いのは日本だけじゃないのに、なぜ何度も謝らなければならないのかと。
 対外的な戦争責任に向き合えない根源には、対内的な責任、つまり、でたらめな国策を遂行した指導層の責任を、自分たちの手で裁かなかった事実があります。責任問題の一丁目一番地でごまかしをやったのだから、他の責任に向き合えるわけがありません。ドイツはいまも謝り続けることによって、欧州のリーダーとして認められるようになりました。」

 日本人は、この問題を自分の問題としてほとんどまともに考えることがなかった。
 夜のニュースで、NHKが内閣府の調査を発表していた。
 中国に対して親しみを感じている人、14.8パーセント 
 中国に親しみを感じない人、83.2パーセント
 韓国に親しみを感じる人、31.5パーセント
 韓国に親しみを感じない人、66.4パーセント
 何のコメントもなしに、たったのこれだけの数字を発表した。この報道は、いったいどういう意味をもっているのか。日本人が親しみを感じないようになっているのは、相手のせいであると感じさせる。ただでさえ「嫌韓」「嫌中」の意識、対立意識が強まっているなかで、こういう数字だけを報道してどうなるのか。排外主義をさらにかきたてていく無神経さを感じる。あるいはそうなるようにとしくんだ意図的報道なのか。
 ドイツと日本の戦後の歩みの違い、もうすこし考えてみようと思う。(つづく)