トーマス・マンの生き方 

 ドイツの作家、「魔の山」の著者トーマス・マンは、ファシズムに限らず、自由を脅かすあらゆる勢力に抵抗した。1933年、ヒトラーが政権を握ると、トーマス・マンはスイスのチューリッヒに亡命し、ナチズムに対抗して闘争を開始する。意気地もなくナチスに協力した者たちに対して、「ヒトラー治下のドイツには、野蛮はあっても文化は存在しない、ドイツの文化は各国に亡命したドイツの文化人によって保たれている」と、リヒャルトシュトラウスフルトヴェングラーをも糾弾した。
 長くスイスに住んだ笹本駿二が、「スイスを愛した人々」(岩波新書 1988)のなかで、当時のトーマス・マンの抵抗を教えてくれている。
 1945年、戦争が終わって8月、トーマス・マンにドイツから呼びかけがあった。
 「マンよ、早く帰ってきて、敗戦の苦しみの中で途方にくれているドイツ国民を助け、励ましてくれ」
 公開書簡は文学者モーローからだった。マンは答えた。
 「今日のドイツで、われわれ不幸な民族が落ち込んでしまった、ほとんど救いのない状態では、助言と援助がどれだけ大切であるかは、あなたも十分知っておられるとおりです。しかし、私がその役に立つかは疑わしいです。」
 そして、帰国が困難だとした理由をあげた。
 「この12年間に起こった出来事は、まだ完全に拭い去られていません。まるで何ごとも起こらなかったかのように振る舞うことはできません。ドイツ人はちゃんと反省しなければならないのです。」
スイスにとどまったトーマス・マンは、さらに批判的呼びかけをつづける。
 「ドイツ知識人たち、すなわち医者、音楽家、教師、文学者、芸術家、世界的に名声を得ている人たち皆一斉に、この恥辱(ナチスに呼応し従うこと)に対して立ち上がり、ゼネストを宣言していたならば、多くのことがあんな事態とは違った方向に進んだということは有り得ることだった。ヒトラー打倒のために、ドイツの学芸、知識界の選良たちはゼネストをやるべきだった。」
 「ヒトラーに派遣されて、チューリッヒ、パリ、ブタペストなどで、ベートーヴェンを指揮した指揮者は、自分は音楽家である、だから音楽をやるだけである、というような口実で、臆面もなくウソをついた。その責任を負うべきだ。本来ナチスドイツで音楽をやるということ自体がすべてウソだった。本来ドイツ人にとって、“自己解放の日のための祝祭劇”であるベートーヴェンの『フィデリオ』は、いったいどういうわけでこの十二年間禁止されなかったのか? それは禁止されなかっただけではなく、いちだんと洗練された形で上演されたこと、それを歌う歌手がおり、それを奏でる楽員や、それに耳を傾ける聴衆がいたというのは、りっぱなスキャンダルだった。ヒトラーのドイツで『フィデリオ』を聞き、顔を両手でおおうことなく、また会場から飛び出しもしなかったとは、何たる鈍感さであろうか。」
 トーマス・マンの糾弾したフルトヴェングラーは、激しかったナチによるユダヤ人弾圧の嵐のかげで、ひそかにユダヤ人音楽家の海外逃亡を助けていたことが戦後分かり、敗戦三年目には音楽家としての活動禁止が解かれた。ドイツ国民、ベルリン市民は、指揮者フルトヴェングラーを熱烈に歓迎した。指揮をとったフルトヴェングラーにベルリン聴衆は15分間も拍手を送り続けたという。

 1985年、ドイツ大統領ヴァイツゼッカーの演説。
 「今日の人口の大部分は、あの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下していない行為に対して自ら罪を告白することはできません。‥‥しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。罪の有無、老若のいずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けなければなりません。全員が過去からの帰結にかかわりあっており、過去に対する責任を負わされているのであります。‥‥
 問題は過去を克服することではありません。さようなことはできるわけはありません。後になって、過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。」
 「アイデンティティというのは、われわれが自分を他人に理解してもらうようにするということでもあります。一緒に生きている仲間、隣人が、われわれを理解してくれているかどうか、それはどのようにしてであるか、ということであります。つまり、われわれが、他の諸民族と一緒に生きていけるかどうか、ということを問う問いであります。」 (「ドイツ人とは ――そのアイデンティティについて『想起と和解』教文館

 戦後日本はどんな道を歩んできたのか。どんな社会をつくろうとしてきたのか。日本人はどう生きるべきか。