敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <8>

 無着先生は3年間、この生徒たちを教えた。そして彼らを送り出した。その卒業式で、藤三郎は代表として答辞を読んだ。その出だしはこうであった。

 「私たちが中学校にはいるころは、先生というものをほとんど信用しないようになっていました。私たちは昭和17年の4月、小学校の一年生にはいったのです。戦争が終わったのは昭和20年の8月です。私たちは小学校の四年生でした。先生というものはぶんなぐるから恐ろしいものだと思っていたのが、急にやさしくなったので、変に思いました。そのことから急に、『勝手だべ。勝手だべ。』という言葉がはやりだしました。‥‥先生から『掃除しろ』などと言われても、『勝手だべ。』と言って逃げていくのでした。
 私たちはしょっちゅう先生にかわられました。小学校6年間に11人もの先生にかわられたのです。私などは学校に来たようなかっこうをして、裏山に遊びにいくような日もありました。私たちの目には、先生というものは山元のようなところに来るのは嫌で嫌でたまらないのではないか、とさえ思ったのでした。だから、あの先生も今に逃げていくなどと、話さえするほどになったのです。」
 そして昭和23年中学校に入学する。無着先生がやってきた。このときも、生徒たちは、この先生も一年ぐらいだ、三年間も教えないだろうと、小ばかにしていた。けれど違った。この三年間、先生と生徒たちは強い信頼感で生きた。互いの心に育ちあうものがあった。
 「私たちは、はっきり言います。私たちは、この三年間、ほんものの勉強をさせてもらったのです。たとえ、試験の点数が悪かろうと、頭のまわり方が少々鈍かろうと、私たち43名は、ほんものの勉強をさせてもらったのです。それが証拠には、今では誰一人として、『勝手だべ』などと言う人はいません。人の悪口を陰でこそこそ言ったりする人はいません。ごまかして自分だけ得をしようなどと言う人はいません。
 私たちが中学校で習ったことは、人間の生命というものは、すばらしく大事なものだということでした。そのすばらしく大事な生命も、生きていく態度がまちがえば、さっぱり値打ちのないものだということを習ったのです。」
 そして藤三郎は一度先生から全員ゲンコを受けたことを述べた。教室の火鉢に誰かが紙をくべて、教室内に煙がたちこめたとき、先生が入ってきて、だれが紙をくべたのか聞いても誰も名乗らなかった。先生は叱った。結局紙をくべた者が忘れていたからで、そのことを後から思い出した本人が名乗り出て謝り、先生は、「みんなの中には、自分の悪いのを他人になすりつけるようなバカ者はいないはずだった」と、みんなで笑ったという出来事のてんまつだった。
 「私たちはそういう教育を受けてきたのです。私たちの骨の中心までしみこんだ言葉は、『いつも力を合わせて行こう』ということでした。『陰でこそこそしないで行こう』ということでした。『働くことがいちばん好きになろう』ということでした。『なんでも何故?と考えろ』ということでした。そして、『いつでも、もっといい方法はないか探せ』ということでした。」

 1969年、無着成恭は、こんなことを書いている。
 「たしかに、『山びこ学校』の実践は、子どもたちに『ぼくたちは何をしなければならないか』『どのような社会をつくらねばならないか』についてめざめさせはしました。しかし、そのような意識にめざめた子どもたちが、その理想を実践のうちに実現しようとしたとき、実現できる科学的な方法論や技術をさずけられていたかどうかということになると、穴があったらはいりたいくなるのです。ほんものの教育とは、むしろそっちのほうが先なのではないかと反省させられたからです。」
この反省が、『続・山びこ学校』(麦書房)となった。
 しかし『山びこ学校』に現れた教育実践は、人間が生きて社会をつくっていく上で必要なすべての土台になる力を培うものであるように思う。現代の教育を見ると、その力はきわめて乏しくなっているのではないか。
 『山びこ学校』は教育の原点を照らし出している。