消えた子どもたち、生き残っている子ども社会   

 12月22日に放送されたNHKスペシャル「調査報告“消えた”子どもたち――届かなかった“助けて”の声」ドキュメンタリーを観た。

 母親に18年間自宅軟禁されていた子どもがいた。手足を縛られることもあった。お風呂に入らせてくれるのはよくて5カ月に1回、ひどくて1年に1回。18歳のとき自宅から脱出し、保護された。保護されたときの身長は1メートル20センチだった。
 NHKは、義務教育を受けられない状態にある子どもたちを「“消えた”子どもたち」として全国の施設に独自アンケートを実施した結果、「“消えた”子どもたち」は、1,039人におよんだ。
▼ ケージに入れられ、紐でつながれていた3歳の男の子。
▼ 家から一歩も出たことがなく、言葉が話せず、笑うことも泣くこともない、食事を犬のように食べていた4歳の子ども。
▼ 自動販売機の裏で暖を取って寝ていた幼い兄弟。
▼ 車上生活のすえ、ミイラ化した遺体で見つかった男の子。

 「“消えた”子どもたち」の原因を分析すると、「虐待・ネグレクト」60%、「貧困」30%、「親の精神疾患・障害」20数%。
 調査で判明した1,039人は氷山の一角、まだ“消えたまま”の子どもがたくさんいるだろう。
 18年間の自宅軟禁から自力で脱出した女性は今24歳になる。彼女は児童虐待を防止するためのボランティア活動の一員になって活動している。
 このドキュメントは夜の7時半というゴールデンタイムにNHKで放送された。取材した人たちの努力が察せられた。
 <中学2年生まで学校に通わせてもらえなかった女の子は、夜は椅子にビニール紐でぐるぐる巻きに縛られ、殴られ、冷水をかけられ、ドアに声が外に漏れないようにガムテープを貼った部屋に閉じ込められていた。発見されて施設に救われはしたものの、「大人を信用できない私でした」と手紙を残して23歳で自殺してしまった。>
 こういう事態まで起こっているとは、言葉も無かった。これまで、高齢者の孤独死などの問題と同時に子ども虐待・ネグレクトの問題が社会問題として取り上げられてきたが、社会の知られないところで恐ろしい現実が進んでいる。知られることのないところで、社会が壊れていっている。
 地区の住民も隣人も、何かがその家で起きているかもしれないと想像することもなかったのだろうか。あの家には子どもがいたはずだと知っていて、子どもの姿が見えないことに疑問を抱かなかったのだろうか。
 無関心社会、無関係社会になっている。すなわち個別断絶社会。
 子どもは「親の責任」で養育すべきだ、自己責任だと、隣人が口を挟むことは控える。プライバシーを侵害するかもしれないと思えることは避ける。そうして自分のことに閉じこもる。他人に対して無関心になる。そういう社会が問題をかかえる家族を孤立させ、子どもを消してしまう。
 「子どもは社会の共通の宝」という人類が守ってきた生存の原理が崩れている。
 「子どもたちが孤立しない社会」は、どうしたらつくれるか。今はどうすべきなのか。

 その報道から4日たった12月26日、NHKの同じ時間帯で放送されたドキュメンタリー「にっぽん紀行」“子どもたちのこま広場”は、福岡の和ごまに熱中する子どもたちの姿だった。こんな子どもの世界が日本にはまだ残っていたのか、ぼくは映像に引き込まれていった。街の広場、公園に異年齢の子どもたちが次々集まってきて、コマ回しに興じる。太宰府天満宮で開かれてきた和ゴマ大会の伝統行事が、地域社会の子ども集団のコマ遊びの起爆剤になっている。
 地域の男の子たちは和ゴマ大会への出場をめざして、居住区の広場で互いに勝負しあって技を磨いている。コマの勝負、「けんかゴマ」だ。子どもたちはそのおもしろさに没頭する。コマの本体は頑丈な木でできている。コマの真ん中に鉄の芯を通し、それを子どもたちは、金槌でたたいて調整する。次にヒモを巻いて、地面へ斜め方向に投げつけて回転させる。勝負はコマとコマをぶつけて、相手をやっつけ、長く回ったほうが勝ちになる。攻撃の方法には、回すときに直接自分のコマを相手のコマにぶつけるやり方と、地面で回してコマを手のひらにすくい上げ、手のひらの上で回転しているコマを相手のコマの上から落として倒してしまうやり方とがある。勝つためにはコマの回転に勢いを加えねばならない。速く回るように、回っている自分のコマの側面をヒモでバシバシとしばく。そこにも技がある。手のひらに掬い上げてから、手を水平に小さく円を描くように動かして回転を加速させる技もある。技や作戦を使いながら、互いに攻撃をしかける。コマとコマがぶつかるときは、大きな音がする。豪快な勝負である。
 見ていてぼくの子ども時代のコマ回しがよみがえった。ぼくらのコマは大宰府のコマほどゴツイものではなかった。普通の伝統コマだったが、買ってきたコマに自分自分で手を加えて、いかにして滑らかにいつまでも回転するコマに変えるか工夫を重ねた。木の本体に油をしみこませ、鉄の心棒の地面側をコンクリートの上でこすって丸くする。本体をやすりで削って少し薄くする。子どもらの感覚、観察力、洞察力、創造力、手わざはたいしたものだった。そうして動いているのか静止しているのか分からないほど快調に回転しつづけるコマに仕上げていった。手のひらに唾液をぷっと吐く。その唾液に芯を立てたコマが微動だにしないで回転し続ける。このコマ勝負は、同時に同じ場所に投げて、ときどき回転しながらぶつかり合いもするが、長く回ったほうを勝ちとした。
 テレビで放映された福岡のコマ広場は、子ども社会になっていた。学校から帰ってきた小学生たちは、広場に集まってきて回し始める。4年生の連中は上手だった。6年生の男の子は、4年生の子らに負けてしまう。映像は6年生の子の悔しい思いや、今度は勝つぞと努力する気持ちを見事にとらえていた。子どもらの自然な表情がすばらしい。何としても勝ちたい6年生の彼は毎日毎日広場で回し続ける。そして大宰府天満宮の大会に参加するためにチームを作るとき、彼は初めてリーダーシップを発揮してチームを率いて乗り込んでいったのだ。
 この地域の子ども社会は復活していた。
 そこには見守る大人たちのひそかなバックアップもあっただろう。電子ゲームなどにはまり込んで、外遊びグループも消えてしまっている現代っ子、状況は全国を覆っている。けれど福岡のコマの子どもたちは、伝統のこの遊びの魅力にとり付かれた。
 地域に子ども社会があったころは、あの子は、どこそこのダレソレちゃんと、子どもの存在感があり、すべての子どもが地域のなかで知られていた。地区に住んでいる子どもは、名前で呼ばれた。このようなところでは「消える子ども」はいなかった。
 今の日本の社会は、そういう地域社会が消滅に向かっている。我が子のことだけにしか目が行かない親、格差社会で子どものことは十分考えられない家庭、子育てを放棄した家庭、それぞれが断絶し、子どもが隠れてしまう。不登校、引きこもり、そして消えてしまう。
 地域に子どもの広場を復活させること、そうして子ども社会をつくること、家庭同士のつながりを生み出すこと、だがそれができない方向へと邁進してきたのは日本の政治、経済、教育、文化のもたらした結果なのだ。経済発展至上主義を政治家は叫び、経済界はそういう政治を歓迎し、貧富の格差はどんどん拡大して、子どもの世界まで打ち壊してしまっている。日本は、国が貧困の基準としている年収122万円未満の世帯で暮らしている子どもは6人に1人、300万人にのぼるという。先進国で最低レベルだ。