敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <5>

 戦時中弾圧を受けていた生活綴方運動の教員たちは、敗戦と共に運動復活に向けて動き出す。その一つの結晶が「山びこ学校」だった。
 「先生はにこにこしながらこんなことを言いました。
 『みなさんが利こう者になろうとか、物知りになろうとか、頭がよくなるためとか、試験の点数がよくなろうとして学校に来ているとすれば大ばか者です。学校は物知りをつくるため、あるいは立派な人間をつくるためになどといわなければならないほど難しいところではなくて、いつどんなことが起こっても、それを正しく理解できる目と耳とを養い、そしてだれが見ても理屈にあった解決ができるように勉強しあうところなのです。とにかく愉快に楽しく暮らしましょう。』
と言って壇をおりました。ぼくはなんだか愉快になって笑ってしまいました。この先生がぼくたちの先生だったのです。『教科書なんか無いほうがこっつらええ』と先生は毎日、新聞の話をしたり、本を読んでくれたり、おもしろい話を聞かせてくれます。今日も『地球はまるい』と言ってみんなを笑わせました。しかし先生は笑わずにじいっとみんなの顔を見ています。いつもそうです。コペルニクスとかいう人の話をして聞かせました。ぼくは毎日学校に来るのがゆかいでたまりません。それに一番うれしいことは先生が『みんなが卒業するまで受け持ちでいよう』と言ったことでした。」
 その先生とは無着成恭氏だった。この文章は中学一年生、川合義憲の作文の一部である。『みんなが卒業するまで受け持ちでいよう』と無着先生が言ったことが大きく心に響いたということは、それまで教師が確保できず、学校に先生が定着しなかったからだ。標高1500メートルの山村の学校であった。
 山形県南村山郡山元村中学校、当時一年生は1935年度(昭和10年度)生まれで、一学年一学級という小さな学校だった。1934年の東北の大冷害大凶作の年に母親の胎内にはらまれたこの子らは、6人きょうだい以上が29人、8人きょうだい以上が20人いた。そのうち戦死や病死によって父を失ったもの8人。幼少時代を戦争下で生きて、中学一年生になったのは1948年(昭和23)だった。無着成恭氏が指導したこの子らの生活記録「山びこ学校」は日本の教育の歴史に深く刻みこまれている。
 師範学校を出て赴任してきた無着先生に生徒たちは驚いた。同じ一年生の佐藤藤三郎は1979年に「どろんこの青春」(ポプラ社)という著作を出版しているが、そこにこんな文章がある。
 「先生は両手でゼスチャーを加えながら、日本の将来について語ったのだ。『日本の独立をかちとり、真の日本人の国を興すには、占領軍の教育政策にのっかっていてはだめだ。日本人は、日本人独特の経験を大事にして、真理を見極める力を養わなければならない。批判力や的確な判断力を身につけることこそが勉強であり、真理を真理といいつくすことが学問だ』といった。そして最後に『こんなことをしゃべったことが占領軍に知れたら、『無着成恭こい、銃殺だドン』と殺されるのだが』と言って生徒たちを大笑いさせた。」
 得体の知れなさを感じさせたその先生が担任になった。
 「とにかく無着先生によって学校に行くことがすごく楽しくおもしろくなった。教室が明るくなった。ほんとに『新しい道』を歩み始めたという実感がわいた」。
 1950年に角川文庫から出版された子どもたちの作文集「山びこ学校」に無着先生は書いている。
 「どうしてこのような綴方が生まれてきたか、それはほんものの教育をしたいという願いが動機だったと思います。教科書には『りっぱに教育するために施設が整えられている』と書かれている学校に地図一枚なく、理科の実験道具一かけらもなく、かやぶき校舎で教室は暗く、破れた障子から吹雪が入ってくる。ここで私ははじめて、社会科は『教科書で勉強するものではない』『社会の進歩につくす能力をもった子どもにしなければならない』という文部省の考えに驚いたのでした。つまり、社会科の勉強とは『りっぱに教育するための施設がととのえられて』いなければ、『ととのえるための能力をもった子ども』にする学科なのでした。そのことが教科書のまえがきに書かれてあったのです。つまり『この教科書は、わが国のいなかの生活がどのように営まれてきたか、その生活に改善を要する方面としてはどんなことがあるかを、学習するに役立つように書かれたものである』のであり、だから、『いなかに住む生徒は、改めて自分たちの村の生活をふりかえって見てその欠点を除き、新しいいなかの社会をつくりあげるように努力することがたいせつである』のであったのです。」
 無着先生と子どもたちの暮らしがどんなものであったか、それは「山びこ学校」に余すところなく記録されている。佐藤藤三郎は「どろんこの青春」のなかに自分の記憶をもとに無着先生の教育をつづった。
 無着先生は、黒板の下の腰板の桟に釘を打ち、雑誌をひもでぶらさげた。「少年文章」「子どもペン」「少年少女ペン」「銀河」「子どもの村」「少年少女の広場」「赤とんぼ」という雑誌だった。だが、子どもたちにはあまり本を読むということがこれまでなかったから積極的ではない。本のおもしろさを教えようと、無着先生は昼休みに本を読んで聞かせた。『クオレ』『宮本武蔵』『路傍の石』、徳永直の『妻よねむれ』、丸山義二の『鍬』、いろんな本の読み聞かせをした。無着先生の実践は他の先生に広がり、学校全体で読み聞かせが展開された。それは中学三年までつづいた。やがて無着先生は「買わせて読ませる」という教え方もやった。藤三郎はこづかいを貯めて、『少年文章』などを購入して読んだ。
 生徒自治会(校友会)の生活部が学校内に理髪店を開いた。バリカンで生徒同士で頭を刈る。無着先生も生徒の頭を刈ったり、先生も刈ってもらったりしていた。刈り終わった人は川の水に頭をつけて石鹸で洗った。バリカンもせっけんも、生徒たちがワラビをとってきて売り、かせいだ金で買ったものだ。校友会の予算はワラビの売上金でまかなった。140名の生徒がワラビを六回に及んで摘みに行った。
 ワラビとりの朝は、部落ごとに班をつくって山へ向かい、昼は山で弁当を食べた。とったワラビは学校に持ち帰り、リヤカーに載せて15キロの道を山形市まで売りに行った。販売は二年生と三年生の仕事だった。稼いだ金で文化部の学校文庫の本も買った。学校新聞のガリ版印刷と紙代にもなった。運動部のバスケットボール、バレーボール、卓球用具も購入した。研究部では科学研究の器具や材料、生活部は木工用具をそろえ、廊下の修繕、ゴミ箱、ちりとりに使った。
 無着先生は校友会の係だった。学校文庫の本の購入のときは無着先生も一緒で、町へ徒歩で行った。帰りは本をみんなで背負ってきた。何万円という大金を扱う会計もみんな生徒の手で行なったのだった。藤三郎はこう書いている。
 「中学生という子どもの世界に、小さな自治会がつくられていた。私などは大学どころか高校にすら進むことなど夢にも思えない状況にあったから、学校の勉強などろくにしないで、毎日毎日、自治会の仕事ばかりやって楽しんでいた。」
 1950年、無着成恭氏は「山びこ学校」あとがきに書いている。
 「『山びこ学校』は戦前にはじまった生活綴方運動が、戦後の解放的なムードのなかで開花したものであるとか、戦後教育の出発点であるとか評価されると身に余る光栄を感じますが、なおかつ身の縮む思いがします。その理由は、「ほんものの教育とは何か」という問いがぼく自身を鋭く切り刻むからです」。(つづく)