「十七音詩」<3>


 暮れ方かかってきた電話の声は、すっかり年老いて発音があいまいになった八重さんだった。
 「夫、木村が亡くなりました」
 「ああー」
 思わず受話器をもって叫んでいた。金剛山麓の村の古家を貸してくださった木村さん、とうとう亡くなられた。ガンを患い、何度も手術をしておられたが、89歳の生涯だった。
 古家を借りることになったとき、木村さんは、
 「この家に、昔、右城暮石も泊まられたんですよ。先生が句会に来てくれたときは、私の家に泊まってくれたんです」
 右城暮石は木村さんも同人になっていた俳句結社「運河」の主宰だった。木村宅に暮石が泊まられたときは、村の俳句仲間も集まり、近所の豆腐屋初子さんもやってきたという。初子さんは木村さんよりも5歳年上、大正9年生まれだった。
 ぼくら夫婦が木村さんの古家に住むようになると、豆腐屋初子さんはときどき店の豆腐を袋に入れて持ってきてくださった。これがまたたいへんおいしい。油揚げはとびきりうまかった。辺鄙な村の豆腐屋だが、客は遠くからも買いにくる。そのころはもう豆腐作りは嫁に任せて隠居の身だった。
 初子さんは自分の句集を平成8年(1996年)に出版しておられる。豆腐と一緒にそれもいただいた。句集の名は「箒草」。そのなかに、こんな句がある。

      号泣も嗚咽(おえつ)も許す滝の前

 この句について、木村さんは句集の跋で書いておられた。
 「俳句を始められて間もなく三十年になろうとしている。昭和四十四年ごろ、初子さんはたいへん逆境だった。あの華奢な体つきの初子さんにとって、傍目にも黙って見ていられないような不安感があった。私は俳句歳時記と『運河』一冊を差し上げて、『よかったら、俳句やってみませんか』と誘ってみた。前々から短歌などに興味をもっておられたとかで、早速俳句活動に入られたのである。」
 そして、赤目四十八滝の吟行句会で、暮石先生の特選一席に輝いたのが、この「号泣」の句だった。そのとき一座の人々から嘆声が挙がったという。滝の音にまぎれて、初子さん、号泣するもよし、嗚咽するもよし、思い切り泣きなさい。
 初子さんにはこんな句もあった。

      何もかも豆腐を作る豆も凍つ

 冬の豆腐作りはつらい作業だったろう。水も豆も凍っている。
 その初子さんは、ぼくらが古家に住んで4年目に亡くなられた。その村では、葬儀はすべて村人がお世話して滞りなくすませるのがしきたりだった。初子さんのお骨は村の寺の墓地に埋葬する。ぼくはその役を担い、もう一人の村人と一緒に初子さんの旦那の墓の隣に、木の墓標を立て埋葬する穴をスコップで掘った。
 わずか5年で、ぼくら夫婦はその村を去った。木村さんは、遺言書のなかに毎年、「村の家を吉田に譲る」と書いていると、何度も言われた。けれど、宅地は地主からの借地だったことが原因で譲渡に至らなかった。
 その木村さんも逝ってしまわれた。
 木村さんの俳号は緑枝。緑枝さんの句。

      滑り来し妻受け止むる落葉道

 奥さんの八重さんは小柄。山道の落ち葉が積もっているところで八重さんが滑った。木村さんは滑り落ちてくる八重さんを両手で受け止めたのだ。仲むつまじいご夫婦だった。

       洗ひたる大根積み上げたる白さ

       青柿のこんなに落ちてだんないか
 
 「だんないか」は大和の方言で、「大丈夫か」という意味である。木村さんは、初子さん亡きあと、こんな句をつくっておられる。

      初子さん黄泉(よみ)にて作れ新豆腐

 初子さんは、あの世でもおいしい豆腐を作っているだろうか。
 木村さんが古家に残され、今ぼくのところにやってきて書棚に眠っていた句誌「十七音詩」。
 イーさんをさがして「十七音詩」の中を見ていったけれど、イーさんの句は見つからなかった。が、右城暮石の名があった。
 イーさん、どこにいるんだろう。
 イーさんも、初子さんも、緑枝さんも、黄泉で俳句をつくっているだろう。