[日本社会] ヘルマン・ヘッセとトーマス・マン、その影響を受けた若者たち


 同盟国のドイツと日本は、1945年相前後して敗戦を迎えた。戦争の時代と戦後の時代を文学者はどのように生きたか。ドイツ人のトーマス・マンヘルマン・ヘッセ、フランス人のロマン・ロラン。同時代を生きていた日本人の若者たちにどのように影響を与えただろうか。
 調べてみると、北杜夫の二年後に、辻邦生が旧制松本高等学校へ入学している。翌年小塩節が松高に入学している。辻邦生は、昭和19年から24年まで松高に在学し、寮生活をともにしている。辻は東大のフランス語科で学び、作家、フランス文学者になった。
 「旧制高校のころ、ヘッセはリルケトーマス・マンと並んで私のかたわらにあった。雲や高原にあこがれて、信州に学んだ私の心を、郷愁の詩人ヘッセがとらえたのは当然だったかもしれない。ヘッセは戦時中の私たちの心をとらえただけでなく、戦後も長く若者の魂のなかに生きつづけた。それはヘッセが、現代の精神的危機と取り組んだ真摯な思想家であり、芸術家であったからである。」
辻邦生は書いている。
 ドイツ文学者の高橋健二は「ヘルマン・へッセ ―危機の詩人―」において、ナチス支配下でマンとヘッセはどのように生きたかを書いた。
1933年、ヒトラーは政権を握った。トーマス・マンは祖国を去った。
 「ヘッセはそのころトーマス・マンを慰める手紙を繰り返し書いた。第一次世界大戦の時以来、同じような弾劾と侮辱を受け、ドイツとたもとをわかつにいたったヘッセは、苦い述懐とともに、はるかに大きな苦渋をなめているマンに同情を送った。ヘッセは久しくスイス国民であり、ドイツの政治からも文壇からも遠ざかっていた。‥‥ヘッセは、小説や評論を書いて、故国で圧制と戦っている同志への慰めと励ましにした。‥‥ドイツではヘッセの本や原稿は、精神と自由とに生きようとする人々の手から手へと秘密に渡されて読まれていた。出版書店のズールカンプは、常に変わらぬ節操と勇敢さをもって、ヘッセの著作を生かすために、あらゆる努力を惜しまなかった。それがために強制収容所において死に境する拷問を受けた。
 ヘッセはドイツから亡命してきた作家を自宅に迎え入れた。トーマス・マンもヘッセの好意を受けた。」
 ヘッセは1936年、ロマン・ロランの満70歳を祝った手紙のなかでこうつづっている。
 「自分はいつものことですが、二つの敵対する陣営の間に立ち、双方から射撃されています。すなわちドイツ内のナチスから、というよりむしろ私の同僚たちから、とドイツの亡命者たちから。亡命者のために大いに働き、大きな犠牲を捧げましたのに。」
 このことについて、高橋健二は、国粋主義者からの攻撃と、進歩主義者や亡命者からの「ヘッセの態度の静止」への非難だったという。
だが、ヘッセは作品を書くことを通して、また亡命してくる人たちを支援することを通して、ナチスと闘った。
 1945年、ナチスは倒れた。祖国は破壊され、人々は家も食も職もなかった。
 生き延びた者も、十二年間の精神的迫害と強制収容所における虐待などで、復興に寄与する余力が残っていないことが恐れられた。
ヘッセは、こう書いていた。
 「国家主義の錯覚を徹底的に清算して、人間となる道を歩むためには、勝利者や中立国民より、国家主義の悪夢を仮借なく知らされたドイツ人のほうが、有利な立場に置かれている。それによって、他国民より人間価値においてまさり、道(タオ)により近づくように希望する。」
と。道(タオ)は、ヘッセが価値を評価していた中国、老子の思想である。
1946年、ヘッセはゲーテ賞を受けた。その際にヘッセは謝辞を述べている。
 「精神の二つの病気が二度の世界大戦を引き起こした。すなわち、技術の誇大妄想と、国民主義の誇大妄想と。それに対する抵抗が最も重要な課題だ。この抵抗に私も奉仕した。」
 偏狭な国民主義ナショナリズム)と技術万能という精神の世界病、この二つ、人間の精神を圧殺する機械文明からも精神の自由を守らなければならないと。
 ヘッセはゲーテ賞につづいて、ノーベル文学賞を贈られた。すでに早くロマン・ロランはヘッセをノーベル賞候補に推していたし、トーマス・マンも、ナチス時代にヘッセへノーベル文学賞を贈ることは雄弁な示威になると提唱していた。
 二度の大戦を通じて、作品を通し生活を通して平和を擁護してきたヘッセがノーベル賞を受けるのは不思議ではなかったが、敗戦ドイツの文学界からの受賞は注目されることだった。

 ヘッセの前の言葉は日本に置き換えて考えねばならないことではないか。今そのことをきっぱりと認識することが重要ではないかと思う。
 「国家主義の錯覚を徹底的に清算して、人間となる道を歩むためには、勝利者や中立国民より、国家主義の悪夢を仮借なく知らされた日本人のほうが、有利な立場に置かれている。それによって、他国民より人間価値においてまさり、道(タオ)により近づくように希望する。」
 この道程は、国と人民の歩んだ歴史を、ごまかしなく潔く見つめて、認識を深める道程である。