敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <9>

 戦争が終わったとき、愛知県蒲郡出身の金沢嘉市は37歳だった。後に「ある小学校校長の回想」(岩波新書)を著した金沢は、戦時中の自らをふりかえってこう書いている。
 「『鬼畜米英』も教えた。『討ちてしやまん』も教えた。『大君のへにこそ死なめ』も教えた。その私がどのつらさげて再び子どもたちの前に立つことができようか。政府の指導者は大いなる誤算であったとすましていられるかもしれないが、一人ひとりの魂に接していく教師、人間の真実に迫っていく教育、つねに真理を真理として教えていく教師が、今までのことはまちがいであったと簡単に言うことは道義的にできないのである。それが純真な子どもであればあるほど人間としての責任の深さに思い悩んだ。」
 思い悩んだ金沢は教師を辞めることも考えたが、好きな仕事である教育、そして自分の生活を考えるとできなかった。子どもから戦犯と言われても仕方がない、と覚悟した金沢は戦後教育を創るために教壇に立ち続けた。
 金沢が取り組んだのは、「児童文化」の活動だった。1946年に、「東京文化連盟」を結成し、音楽、演劇、童話、舞踊、映画、人形劇などを子どもたちに伝える運動を起こす。戦時中は、戦争に邁進する小国民を育成するために教育を国家統制し、国定教科書によって学校文化はがんじがらめに束縛されていた。そこから解放された新しい児童文化を創造しよう、ほうはいとして起こる民間の教育運動のひとつの創出だった。金沢は「日本のアンデルセン」になりたいと願った。「東京文化連盟」の教師たちは、秋田県教員組合と協力して、1946年の夏、秋田の横手市で公演活動を行なっている。金沢はこうつづる。
 「私たちはヨシキリの鳴く田んぼ道を人形劇の道具やアコーデオンを持って会場校へ向かった。会場校の玄関にはすでに入場料としての『一握りの米』を俵に詰めて私たちを待っているところもあった。それに感動して私たちの公演も熱が入り、思いがけないほどの好評を博した。こうして二週間の間に36俵の白米をもらって東京に引き上げてきた。」
 金のない家庭の子どもたちは、米一握りをもって、人形劇などの公演を観にやってきて、目を輝かせて観ていたのだ。1946年の夏というと、敗戦からわずか一年である。秋田県教員組合は、その間につくられていた。この教師たちの情熱を想像するとぼくの胸は熱くなる。金沢先生は教職員組合の活動に参加することには積極的ではなかったが、この秋田の体験によって教職員組合に親しみを感じ、自らも活動に入っていくきっかけになったのだった。
 「教師とは ――金沢嘉市が拓いた教育の世界」(中野光・白井克尚・浅岡靖央・森田浩章 つなん出版)が伝えている。 
 金沢が教員になったのは1928年で、赴任は東京の多西小学校だった。それから1946年までの間に、教え子はどうなったか調べた。卒業生のクラス会に出かけては、元気でいるか、生きているかをたずねて分かったことは、
 調べることのできた教え子40名中、戦死は11名、1人が病死であった。
 金沢は死んだ教え子の遺族をまわり、墓参りをしている。金沢の悔恨は、「なぜ日本は戦争への道を歩んだのか」という、歴史への問いになり、彼は人生をとおしてその問いを抱えつづけた。
 「私は教壇の上から子どもたちの顔、その澄んだ眼を見ていると、『もうどんなことがあっても、この子どもたちを戦場に送るようなことをしてはならない。また戦死した彼らもきっとそう願っているにちがいない』と思うにつけ、これからはまず生を大事にする教育、人間を大事にする教育を第一に考えなくてはならないと思うようになった。そして子どもへの私の言葉も平和を求めることで自然に熱をおびてくるのであった。」(「ある小学校校長の回想」)
 軍国主義教育から民主教育へ、その重い責任を負う文部省は、1946年5月、「新教育指針」を発表し、全国の教師に伝えた。文部省は、教育の目標を「平和的文化国家の建設」にあるとし、教育者の理想像に、福沢諭吉とスイスのペスタロッチをあげた。
 1946年11月3日、日本国憲法成立、翌1947年5月3日施行。
 金沢は決意する。
 「この憲法だったらやっていける。この憲法の平和を志向する精神こそ、かねがね私の求めていたことである。私は幾度もこの草案を読み返してみた。これならやっていける。この憲法精神をもとにした教育こそ私の望んでいた教育である。わが半生はこの憲法精神によって生きていかなくてはならないと改めて決意したのであった。」
 そして教育基本法が成立する。
 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」
 1950年1月、金沢先生は東京港区桜川小学校六年生の担任であった。三学期の始業式のあと、先生は子どもたちに話した。
「さあ六年生もあと三ヶ月です。思い残すことのないようにしっかり勉強しよう。そこで君たちの方で卒業する前にぜひ教えておいてもらいたいというものがあったら言ってみなさい。」
先生がそう言ったとき、一人の生徒が、こんな提案をしたのだ。
 「日本の歴史を教えてください。」
 これは先生にとっては重い、厳しい提案だった。金沢先生はこの子の要求をしっかりと受けとめた。卒業式まで日本の歴史を教えたのだ。これが、金沢嘉市の社会科教育の新しい実践の始まりとなった。
 「歴史教育が日本の歴史をただ系統的に通史として教えるのみだったら、それは単に暗記物の歴史であり、われわれの意図している歴史ではない」
 金沢のこの指摘は、今も変らぬ歴史の授業の実態を突き刺している。卒業していく金沢先生のクラスの子らは、「小学校6年間のなかでもっとも印象に残ったのは、この授業だった、この授業で日本の国が分かった」と語ったという。
 「ぼくは歴史はきょう初めてなので、ぼくは歴史ってこんなものか、と思った。ぼくの歴史は昔からのえらい人のことだと思った。ぼくはきょう初めて歴史というものがわかった。」
 当時、戦時下の国家統制によってゆがめられた歴史教育を変革する実践が起こっている。1946年4月、敗戦後六ヶ月で、民主主義教育研究会が設立され、47年12月、名称を日本民主主義教育協議会(民教協)と改め、全国的組織として出発している。民教協はポツダム宣言の趣旨にもとづき、日本の民主主義革命の一環として教育の民主化をすすめようとする団体であった。そして49年、歴史教育者協議会(歴教協)が結成される。
 日本教職員組合日教組)は、1951年に第一回全国教育研究大会を開催、それ以後、毎年全国の教職員が現場の問題や研究実践を持ち寄って、研究し実践を討論するようになっていった。一方で、各教科、各テーマを研究する民間の教育研究会が全国に続々と誕生していったのだった。
 1950年、朝鮮戦争が勃発した。
 日教組の不滅のスローガンであると、槙枝さんが言った「教え子をふたたび戦場に送るな」は、1951年5月に開かれた定期大会で正式に採択された。