あの戦争の時代、召集令は、軍から警察へ、警察から役所へ伝えられ、役所の兵事係が召集令状を当該の家に持ってきた。令状は本人に渡されたが、本人不在の場合は家族に手渡された。召集令状は紙の色が赤かったから庶民はそれを「赤紙」と呼んだ。令状には召集部隊名と到着日時等が書かれていた。理由なく召集に応じなかった場合、罰金刑もしくは拘留に処せられた。
召集令状の配達人は、令状を渡すと、「召集令状です。おめでとうございます」と言った。
あの戦争の時代、、日本では、20歳に達した男子は徴兵検査を受けることが義務付けられていた。検査は、地域の集会所や小学校で行われ、検査に合格した者は各連隊に入営する。志願して17歳から入営する若者もいた。
検査の結果は、甲種、乙種、丙種、丁種、戊種の段階に分けられた。甲種合格の目安は身長152センチ以上で身体頑健な者、乙種はその次の段階の健康な者で兵役に適する者、丙種は、身体上極めて欠陥が多く現役には不適だが国民兵役には適する者、丁種は、目や口が不自由、あるいは精神に障害を持っていて兵役に適さない者、戊種は、病中または病後にあり兵役の適否の判定できない者、このように4つのランクに分けられた。戦争末期になると兵員の不足から、乙種・丙種も徴兵された。
詩人、金子光晴の息子に、召集令状が来た。
富士
重箱のように
せまっくるしいこの日本。
すみからすみまで みみっちく
俺たちは数えあげられているのだ。
そして、失礼千万にも
俺たちを召集しやがるんだ。
戸籍簿よ。早く焼けてしまえ。
誰も。俺の息子をおぼえてるな。
息子よ。
この手のひらにもみこまれていろ。
帽子のうらへ一時、消えていろ。
父と母とは、裾野(すその)の宿で
一晩じゅう、そのことを話した。
裾野の枯林をぬらして
小枝をピシピシ折るような音を立てて
夜どおし、雨がふっていた。
息子よ。ずぶぬれになったお前が
重たい銃をひきずりながら、あえぎながら
自失したようにあるいている。それはどこだ?
どこだかわからない。が、そのお前を
父と母とがあてどなくさがしに出る
そんな夢ばかりのいやな一夜が
長い、不安な夜がやっと明ける。
雨はやんでいる。
息子のいないうつろな空に
なんだ。くそおもしろくもない
洗いざらした浴衣(ゆかた)のような
富士。
召集令状が一人息子に来た。東京に住んでいた。オレはそんなもの、従う気はないぞ、戦地へ行かせることはできないぞ、夫婦は一晩じゅうどうしたらいいか相談した。息子は病弱だった。父と母は入隊させられて軍務についた息子を想像する。夢にまで見る。ずぶぬれになった息子が重たい銃をひきずりながら、あえぎながら、自失したようにあるいている。それはどこだかわからない。その息子を父と母とがあてどなくさがしに出る。そんな夢ばかりのいやな一夜、長い不安な夜がやっと明ける。外を見ると、秀峰富士は雪をかぶっている。「なんだ。くそおもしろくもない」、金子は悪態をつかずにはおれなかった。
「召集令状は二度来た。最初の時はまだ東京に住んでいた。いかにしてその厳重な網をくぐり抜けるか。母親が医師の診断書を持参して集合書へ行き、何とかその場をくぐりぬけた。そして身体を痛めつけて軍務に応じられぬようにするために、夫婦共謀して子どもの身体を責めた。子どもを部屋に閉じ込めて松葉でいぶしたり、本をいっぱい詰めたリュックサックを背負わせて走らせたり、雨中に立たせたりして、気管支カタルの発作を誘発させようとした。我と我が手で子どもを痛めつけること――戦争への抵抗が、こういう方法で行なわれたのである。それだけが召集を逃れるただ一つの道だった。他のどれだけの家族たちが、これだけの我慢強さで戦争に抵抗しただろうか。この意味で言えば、金子一家は『反戦家族』だった。
『それは、ただ、肉親愛のエゴイズムとだけは言えないぼくらの気持ちだった。戦争に対して、もう一銭も支払いたくないというのが本心で、その他に、どこまでこちらの主意を押し通せるかという競争もあった。』――これが金子光晴の気持ちだったが、召集令状は再び疎開地(山中湖畔平野村)の家に届いた。今度も松葉いぶしで喘息発作を誘発させ、今度は金子光晴が医師の診断書を持って上京、当局の目をくらましたという。一年延ばしにして時をかせぎ、ついに敗戦の日へこぎつけたのである。この詩の背後には、こういう抵抗が隠されていた。」(「日本の詩歌」中央公論社 伊藤信吉)
受け取った召集令状に対する反応はさまざまだったろう。意気高く勇ましく出立した人、あきらめて従順に旅立った人、悲しみを抑えて出て行った人、そして手段をこうじて抵抗した人がいた。ぼくが聞いた話では、醤油をがぶ飲みして、目を充血させ、体調を狂わせて徴兵を免れようとした人、体を傷つけて抵抗した人もいたという。
仏前に 令状供え 今日はまだ 今日のつとめの 田草取りに出ぬ
篠原杜子城
仏前に召集令状を供えて、今日まだやっていない仕事の田の草取りに出て行ったという。出征すればもうできない。我が家はどうなるだろう。
草ぎりてゐし 老(おい)が起(た)ちて 叫びたり 生きて帰れと たしかに聞きぬ
大塚泰治
草とりをしていた老いたる父(あるいは祖父か)が立ち上がって、私に叫んだ。「生きて帰って来い」と。その声を確かに聞いた。『生きて帰れ』は、あの時代、おおっぴらに言える言葉ではなかった。