来年は戦後70年。
第二次世界大戦を戦ったヨーロッパ・アジアの国ぐにでは、いろんな記念行事も開かれることだろう。そのとき戦勝国と敗戦国では、戦後どのように国づくりをしてきたか、その国の歴史認識がはっきりと現れる。すでにその歴史認識は国づくりに現れているが、記念行事はそれを明瞭に示すだろう。
イギリス、フランスは戦勝国で、ドイツ、イタリアは敗戦国だとされてきた。それが常識だと思っていた。ところが「フランスは敗戦国です」と内田樹が言う。(「街場の戦争論」)
「フランスはほんとうは敗戦国なのです。44年までドイツの属国であり、連合国に宣戦布告だけはしていないものの、ドイツの後方支援国として事実上の枢軸国だったのです。フランスと日本は、フランス領インドシナ植民地を共同統治しています。だからこそ日本軍は開戦初期にあれほど簡単にシンガポールまで南進できたのです。敗戦国があたかも戦勝国であるかのような顔をして戦後の国際社会に登場できたのは、戦前のフランスと戦後のフランスをつないでしまった人物がいたからです。ド・ゴール将軍です。ド・ゴールは休戦時点では国防次官に過ぎません。ド・ゴールのロンドン亡命政府は実体は無いに等しかった。法理的には対独協力をしたヴィシーのペタン政権のほうが正当な政府なのです。ペタンは第三共和政の議会で全権委任されたわけですから。でも、ヨーロッパ戦線で戦況がドイツに不利に変わると、それまでドイツに協力していたフランス人たちも手のひらを返すようにレジスタンスに加担して、最終的にはフランス人たちが敗走するドイツ軍を痛撃した。戦争が終わった時点では『ドイツに勝った』と勝利の美酒を提げていたフランス人たちがたくさんいました。彼らは、戦前のフランスから戦後のフランスの間に『ヴィシー政権』という『鬼胎』があったが、その一時的逸脱をフランス人は自分たちの手で取り除いて、もとの健常な国家身体を回復した、という司馬遼太郎的な物語を声高に語りました。でも、フランスは1940年に連合国を離脱しています。ドイツと戦った自由フランスは一交戦団体に過ぎませんでした。でも、ド・ゴールがいわば身をもって架橋したことによって、戦前のフランスと戦後のフランスの同一性は保たれたのです。‥‥とにかくフランスにはド・ゴールの自由フランスという政治組織があり、国内にはレジスタンスがありました。自分の命をかけて自国政府を批判していた人たち、ヴィシー政府軍を相手に命がけで戦った軍人たちがいた。最終的に彼らの存在がフランスの主体性と無実を担保したのです。」
文中の『鬼胎』という語は、司馬遼太郎が使った言葉で、明治の日露戦争をきっかけに日本のなかにはらまれていったもの、参謀本部、それがアジア太平洋戦争を引き起こし亡国に至った原因としている。
日本、ドイツ、イタリアは三国同盟を結んで大戦を戦い、ともに敗北したと思っていた。だが、「イタリアは敗戦国ではない」と言う。1995年に開催された日独伊三国の研究者による国際シンポジウムで、イタリアの研究者がそう述べたと言う。
佐藤健生(拓殖大学教授)の論。(「『戦う民主主義』は育っているか」 岩波書店「世界1月号」所収)
「(国際シンポジウムで、)イタリアの研究者が、開口一番『イタリアは敗戦国ではない』と語ったのである。聴衆の驚きぶりは想像できよう。しかしよく考えてみればその通りなのである。確かに日独伊三国同盟は成立しており、イタリアは同盟国としてともに参戦しているが、実際は日独両国に先駆けて戦線から脱落した国であった。1943年7月、ファシスト大評議会の不信任決議にしたがって、国王エマヌエーレ三世がムッソリーニを罷免する。逮捕されたムッソリーニはナチス親衛隊に救出され、その後、北部から中部のイタリアにイタリア社会共和国を樹立する。ナチス・ドイツの傀儡政権である。イタリアでも反ユダヤ政策が本格化する。一方、ムッソリーニ罷免後を引き継いだパドリオ政権は、43年9月に連合国に無条件降伏をし、10月にはドイツに対して宣戦布告をする。こうしてイタリアは、ドイツ軍に支えられたファシストの残党軍に対して、北上する連合軍とともに、イタリア軍が戦うという内戦状態に突入する。1945年4月28日、北イタリアで捕らえられたムッソリーニは、『イタリア人民の名において』処刑され、翌日イタリアのドイツ軍は降伏する。ムッソリーニを処刑したことで、『自力解放』を遂げ、終わってみれば、戦勝国になっていた、というのがイタリアの内実なのである。」
内田樹は前記の本でこのことについてこう書いている。
「43年の連合国軍のシチリア上陸をきっかけに、独裁者ムッソリーニへの批判が噴出します。そして王室、軍部、ファシスト党の一部で『ムッソリーニおろし』の動きが出てきて、独裁権・統帥権を国王に返還する動議が国会で可決され、7月にムッソリーニは逮捕されます。その後、ムッソリーニはドイツ軍に救出され、北イタリアにドイツ傀儡政権イタリア社会共和国を建てますけれど、パルチザンとの内戦に敗れて処刑され、死体は街に吊るされました。」
こういう歴史があった。常識的一遍の歴史認識とは異なる。イタリアもフランスも、最後にはナチス、ファシズムと戦って、勝利を得たのだという国民的認識ができた。
ドイツは日本と同じ完全な敗戦国であった。だが、ドイツは無条件降伏をしたけれど、これまた歴史認識に違いをもたらす歴史を、ドイツ人はもっている。ヒトラー暗殺計画はいくつもあった。本格的なクーデター計画もあった。それらは成功しなかったが、戦後の国づくりにおいて、命をかけて独裁者に抵抗し戦ったドイツ人がいたということが大きくドイツ国民に影響してくる。それは「あるべきドイツ人像」であり、そのことがその後のドイツ人と国づくりに関係する。
内田の想像力はこうである。
ナチスと戦って死んでいったドイツ人がいた。戦前のドイツの「よき伝統」を一身に体現したそうした人物は、同時に戦後ドイツが範とすべき理想的市民に置き換えることができた。そうして戦前のドイツと戦後のドイツのつながりが共有され、戦争責任を自己の責任において反省し批判し、被害者に謝罪しつづけた。ヒトラーの台頭をゆるしたあやまりを金輪際繰り返すまい、ドイツ人の強い意識は新たな歴史をつくっている。
佐藤健生は、ドイツ国民は「戦う民主主義の徹底を国是とした」と言う。
「戦後日本では平和主義を国是として再スタートを切った。これに対して同じ敗戦国ドイツで国是となったのは民主主義の徹底であった。史上最初の民主主義をワイマール共和国で体験したドイツでは、理想的憲法をもってしてもナチズムの台頭をもたらしてしまったことへの反省が、『徹底』という態度にこめられている。(戦後掲げられた)スローガン「ボンはワイマールではない」は、ナチズムの再来に対して決然と立ち向かう、『戦う』ないし『戦闘的』民主主義と言われる民主主義のスローガンであった。この民主主義を日独で比較して思うのは、ドイツの二度目の民主主義と日本の初めての民主主義との、成熟度とも言うべきものの違いである。民主主義の基本は各人それぞれが意見を持つことであるが、『他人と同じ』ことが求められがちな日本では、結局のところ民主主義も多数決の問題と解釈されがちである。現に、昨今の改憲論争でもそうした点が焦点となっている。」
「いったいどうして日本は戦争に負けたのか。誰がこんな愚かな戦争を始めたのか。どこから日本の仕組みが狂ったのか。その検証が、東京裁判のような勝者による敗戦国への報復としてではなく、自国民による自国システムの瑕疵(かし)の点検という趣旨で遂行するべきだったのです。なぜ日本はこのような無謀な戦争に突き進んでしまったのか、その政策決定過程についての証人がおり、証言があり、証拠文書が残っている段階で、それを当事者の立場から冷静に検証することができたら、そのあと再建された日本の統治システムは今とはまったく違ったものになっていたはずです。」(内田樹)
結局、日本は自ら敗戦の検証、戦争責任を徹底的に明らかにすることを怠ってきた。なおざりにしてきたのか、避けてきたのか。それが今の政治状況と民衆の意識をつくりだしている。
徹底した民主主義を進めてきたドイツにおいてさえもネオナチは生まれている。そのネオナチと仲良く写真を撮っている自民党政治家がいるというこの国。