敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <4>

 白鳥先生は、二学期になって48名の子どもたちを8グループに分け、グループはそれぞれ机を三つくっつけて周囲に座る形態に変えた。一つの班8人は向かい合って話し合いができる。
 9月8日
 リンゴ盗難事件が起こった。文江、光子が持ってきたリンゴがだれかに盗られた。白鳥先生は、やったものは正直に名乗り出るように告げ、生徒をホウキでなぐろうとし、自分をなぐった。クラスはパニックになった。子どもたち全員が泣いた。一連の指導について、白鳥先生の自問。
 「これが教育だろうか。逆上して、あるいは罪を憎んで少年たちをかばったとしても、本気でなぐるつもりだった。ぼくには敗戦直後に人をなぐった経験もある。だが気がついたら自分をなぐっていた。一発目には狂気の純粋さがあった。問題は二発目からだ。『効果を計算する』教師根性が生まれなかったか。いったい教育とはなんだ。教師は生徒の非行にどこまで干渉できるのか。自身の教師根性を、つまり説教と意義づけによる心理的強制を許すことができるだろうか。手段を目的化して陶酔するのが教師の習性だ。だからこそ自戒して、経験主義の猫なで声を拒否し、教育心理学や教授技術を無視するのだ。」
 ある夕刻、嘉代が汚れていた教室を掃除していた。明の姿はなかったが明も一緒だったらしい。嘉代は白鳥に、「先生、このごろ悲しいか」と聞いた。明が「先生がこのごろ悲しそうにしているのは、おらのせいだ」と嘉代に言ったことによる質問だっだ。リンゴ事件の時の指導が子どもたちの重荷になっているのかと白鳥先生は思う。
 10月、木曜ごとのクラス自治会は、時に暗くなっても続いて、そのたびに和子の家から電話で文句がきた。妻を亡くした畳職人は夕食を和子に任せていたからだ。
 クラス自治会で『目標』を討議、9月下旬は「教室を美しくしよう」、10月上旬は「心を美しくしよう」を選んだ。二学期から始まった全校昼休みラジオ体操で、松組は全員参加。生徒会の六つの委員会の正副委員長12名に六年松組の子らが立候補し、そのうち9名を松組が占める。松組のクラス自治会で決まったことが生徒会のなかで可決されるようになった。
 白鳥先生は、これを危険な徴候だと思う。
 「五月の自由放任からまだ半年だ。市民民主主義は身につき、数時間に及ぶ討議ができ、一応の集団行動の訓練は身についた。だが、彼らの内面はいくらも充実していない。知識はきわめて劣る。野性味は失われようとしている。ここで『団結』や『謙虚さ』を説きすぎると、それは形式的な多数決主義と癒着して『一クラス独裁』の『優等生づら』した甘ったれの集団をつくるだろう。『権利』を過信して東大付属小学校のような小官僚が生まれるか、『正義の味方』少年ファシストの行動隊となるだろう。とすると、急がねばならないのは、基礎学力の向上とともに、個性の開拓と、内面世界の充実である。」
白鳥先生はそのことに取り組み始める。
 10月6日
 白鳥先生は、騎馬戦や棒倒しの間に、六年男子全員に遊戯「お猿のかごや」をやらせた。低学年や女子のやる遊戯だ。男子は泣いていやがった。それでも白鳥先生は強制した。生徒は、手ぬぐいの鉢巻、ちゃんちゃんことパンツ、白鳥先生も一緒に、絣の着物に袴をつけ、たすきをして踊った。観衆からやんやの喝采を浴びる。泣いて嫌がった男子も終わったときは大興奮だった。
 10月17日
 志賀高原、熊の湯まで遠足。20数キロを歩いて登る。一泊して眼を覚ますと猛吹雪になっていた。雪は15センチほど積もっていた。子どもたちは夏姿。帰ることはできず、もう一泊することになる。泣き出す子もでた。無断で帰ろうとした一団もあった。松組の子らはもう一泊になったことを喜び、演芸会を開いた。19日は快晴。銀世界の中、白樺と紅葉が輝く。山を下るにつれて別世界の美しさに子どもたちは感動。
 11月下旬
 郡の国語研究会が開かれる。松組で公開授業を行なうことを白鳥先生は立候補して引き受け、子どもらも賛成。授業の内容は、「雪」をテーマに、志賀高原の体験、雪国の生活、雪の研究をドッキングし、各班が分担して総合研究を行なう。計画を進めるうちに、企画は発展して、国語研究会は三日連続の文化祭となっていった。郡全体からの見学者も来て一大イベントになった。
 3学期
 松組の子どもたちは「図書館の本を全部読もう」と嵐のような運動を起こし、昼休みも放課後も本を読む。松組の読書量は他のクラスを圧倒した。
 白鳥先生は、冬の朝7時前、裸になって校門に立つ。雪を踏み分けて子どもたちがやってくる。松組の生徒も十名ほど裸になった。吹雪の日も、氷点下16度の朝も、1メートルの積雪のときも、ボールをけって校庭いっぱいに走り回る。
 子どもたちが、サークル活動を始めた。新聞を読む会、俳句会、サッカークラブ、哲学会、伝記を読む会、マラソングループ、手芸の会ができた。サークルに入る子は他のクラスに広がった。
 指導態勢変更、学習促進のために教科担任制を導入する。
 一年間の決算として作文コンクールを実施。修二は大学ノートに22ページびっしりと「家の人々の生活」を書いてきた。収介は原稿用紙30枚の小説『フランソワの冒険』、明は『銀杏の木かげ ――クラスの女子に贈る』という小説を76枚書いてきた。だれもが20枚以上は書いた。
 白鳥先生は、松本高校での別れの日に竹内教授から言われた「可能性に対する情熱」を実践できたことに満足をおぼえていた。
 3月24日
 卒業式、松組の子どもたちは出発していった。白鳥先生は退職願を出した。
 白鳥邦夫20歳、たった一年間の小学校教師だった。たくさんの教師が民主教育とは何かを問い実践を始めた時代、教師たちの創造的試行錯誤が全国で繰り広げられていた。白鳥先生はこんな教育を行なっていたのだ。
 どうしてこのような学級をつくることができのか。どうしてこれほどまでに子どもたちを育てることができたか。その子らは、3年生までは軍国主義の中で教育された。白鳥自身は、国ために命を捧げることを第一義にする海軍の学校から、戦後の自由な校風にわく松本高校に入り、小学校の教師になった。白鳥邦夫の思想、知性、情熱、行動力はこの変転のなかで鍛えられ引き出された。
 『大好きな先生』、この一途な気持ちが子どもたちのエネルギーとなっている。先生と共に生きる、生徒と共に生きる、そのつながりが子どもと教師を育てる。先生の情熱、可能性へのチャレンジ、知性・思索、愛、それらが子どもたちを引きつけたのだった。(つづく)