敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <7>

 無着成恭先生はこう書いている。
 「私は社会科で求めているようなほんものの生活態度を発見させる一つの手がかりを綴方に求めたということです。(「山びこ学校」に収められた)綴方や詩は、出発点として書かれたものです。一つ一つが問題を含み、一つ一つが教室の中で吟味されているのです。」
 そのことを証明するために無着先生は一つの例を示した。
 生徒が家で縄をなっていた。隣の家のおじさんがやってきて父親と話している。だれそれのところでは、息子を教育したために百姓がつぶれてしまった、学校に入れたばっかりに、息子は百姓がいやになり、田を全部小作人に貸して月給とりになった、ところがそこへ農地解放が行なわれ田を全部とられてしまった。
 おじさんと父親の話を聞いた生徒は「百姓はやっぱり田にはいって泥をかきまわしているとよいのです。」と綴方に書いた。
 無着先生はこういう綴方から授業を出発させた。「教育を受けるとなぜ百姓をするのがいやになるのだろう」、生徒たちはいろんな意見を出してくる。そして「百姓は働く割合にもうからないから」ということになった。すると無着先生は、「ほんとに百姓は割損なのか」という疑問を提出し、算数の問題に発展させる。生徒たちは、データを調べ計算する。炭の本当の値段を計算するもの、繭の本当の値段を計算するもの、米の本当の値段、葉タバコの値段、鍬や鎌の価格、肥料の価格と、分かれて計算を繰り広げた。必要経費、労働力なども含めて考えた。生徒たちは討論し、そうして百姓が割り損になっていることを実証した。
 すると、「やっぱりそうなんだ」と百姓悲観論が生徒から出てくる。 「損をしても働かなければならないなんて、そんなバカなことがあるか」「損しなくてもよいようにがんばるべきだ」という意見が出てくる。
 そこで無着先生は「損をする原因はどこにあるのか?」という問いを出した。みんなは、教科書を調べ、農家一戸あたりの土地面積と集約農業の実態を調べる。
 こんな意見が出てきた。
 「同じ人間で、同じくらい働いて、一方は一人で五人の家族を養えるほど収入があり、他の一方は家族全員を動員して働いても、いっぱいいっぱいの収入しか上げられないなんて、そんな馬鹿な話はない」
 「そうだ、そうだ、百姓の割損はもっと別のところに原因があるに違いない」
 「見てみろ、教科書の24ページを」
 そこには、米は社会生活の組織をつくる基礎であったから「幕府も諸侯も熱心に農事を奨励して、できるだけ米をたくさんとることを望んでいた」「農民は形の上では武士に次ぐ位置にあったが、武士や大名の生活をささえるために、土地にしばりつけられ働かされていた」と書いてある。
 生徒たちの学習はさらに発展する。教科書を隅から隅まで読む生徒、農業に関連した本を読む生徒、外国の農業の実態を調べるもの、そうして農業に科学を導入していく必要性をつかんでいった。
 無着先生の発見した生活綴方の方法は、現実の生活について討議し、考え、行動まで押し進めるための綴方指導であったのだった。

 『山びこ学校』の最初に掲載された江口江一の「母の死とその後」という作文は、原稿用紙28枚に及ぶもので、この作文は全国作文コンクールで全国一を受賞した。江一は、5歳のときに父をなくし、中学生になって母をなくした。残された弟妹とおばあさんを江一が養うことはとてもできることではない。弟妹は親戚に引き取られた。残ったおばあさんと暮らしながら、江一は田畑を耕し母親が抱えてきた借金を返済しようと苦闘する。そのすさまじい生活を江一は考えるのだ。
 「不思議に思うことは、自分がそんなに死にものぐるいで働いて、そのうえ村から扶助料さえもらって、それでも貧乏をくいとめることができなかった母が、私が卒業して働き出せば生活は楽になると考えていたのだろうかということです。そのことになるとぼくは全くわからなくなって、心配で心配で夜も眠れないことがあるのです。それは、あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金を食いとめることができなかったものを、ぼくが同じように、いや、その倍も働けば生活は楽になるか、という考えです。」
 江一は学校を休んで働いた。そして中学を卒業してから働く道筋を考え抜く。どうすれば借金が返済できるか、暮らしをたてられるか、具体的に計算していく。そのすざまじい生き方をクラスのみんなは放っておかなかった。無着先生は、江一が学校へも来れるようにするにはどうしたらいいか、江一と話し合った。そして江一に今後の仕事や暮らしの計画を立てさせた。それを先生はクラスの生徒に見せ、「なんとかならんか」と聞いた。計画を見た藤三郎は、
 「できる。おらだの組はできる。江一もみんなと同じ学校に来ていて仕事が遅れないように、なんぼもできる。なあ、みんな」
 それからクラスの支援が始まるのだ。江一の家の薪運び、葉タバコのし‥‥、それをクラスのみんなが行なう。無着先生もみんなの住んでいる村に引っ越した。
 江一の綴方「母の死とその後」の最後にこう書かれている。
 「ぼくは、こんな級友と、こんな先生にめぐまれて、今安心して学校にかよい、今日などは、みんなとわんわんさわぎながら、社会科『私たちの学校』のまとめをやることができたのです。明日はお母さんの三十五日です。お母さんにこのことを報告します。そして、お母さんのように貧乏のために苦しんでいかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。私が田を買えば、売った人が、ぼくのお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思っています。」(つづく)