敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <6>

 「山びこ学校」の生徒、佐藤藤三郎たちが二年生になったとき、社会科の勉強で農村調査を行なっている。山元村では米が足りなかった。村の人口は二千人ぐらいで、食べる米の自給率は三分の二程度、三分の一は他から買ってこなければならない。クラスの生徒43人は、村ではどのくらい米がとれるのか、増産の余地はないのか、それを調べるために村の一戸一戸を訪ねて聴き取り調査をした。
 二千人の人口で、一人三俵の米を必要とするなら、六千俵の米が要る。村の水田がおよそ八十ヘクタール、村では一反歩あたりの収量が約五俵だから全部で四千俵ぐらいしかとれない。すると二千俵足りない。これをもっと増収にみちびくためにはどうしたらいいか。藤三郎の家も、この足りない分を補うために養蚕をしていた。どうしたら米を自給できるだろうか。農村調査では収量が五俵程度であることに問題があると子どもたちは考えた。
 結局これがきっかけで藤三郎は農業高校へ進学することを決意する。その後、藤三郎は農業一筋の道を歩み、政治・社会の仕組みや農村・農業の研究、評論活動に打ち込んでいった。後に藤三郎は収量が少ないのは、イモチ病ではないか、そのことを当時だれも徹底的に問題にしていなかったと書いている。
 ちなみに現在の普通の農家では一反歩あたり十俵前後は収量がある。
生徒たちは班活動で研究調査も行なった。
 二班は、「学校の勉強とはどういうものか」という研究をして発表している。班長は川合義憲君。
○ 義務教育はなぜ9年になったのか。
○ 村の大人たちは学校の勉強についてどんな考えをもっているか。
○ 中学校の生徒は今行なわれている授業に対してどんな考えを持っているか。
○ 学校の勉強とはどういうものか。
 生徒たちはこのテーマで聴き取り調査を行なっている。
 一斑は、「学校はどのくらい金がかかるか」という調査研究をしている。班長は藤三郎君。
 調査団は、クラス全員の小づかい帳を借りて、用途を分析し、学校予算を調べて考えている。この調査報告のまえがきはこうである。
 「私たちの家では金がなくて困っています。私たちが教科書の代金とか紙代とかをもらうにも、びくびくしながらもらわなければならないことが多くなりました。それで、私たちは、山形や上ノ山の人たちも私たちと同じように、親にえんりょしながら金をもらっているだろうか。もらっていないとすれば、山元の子どもだけがなぜこのようにしてもらわなければならないのだろうか、などということをいつか真剣に考えてみたいと思います。そのために私たちの班では『学校というものは、どのくらい金がかかるものかということについて、まず調べてみようじゃないか』ということになり、みんなから小づかい帳をかりて調べてみました。」
 生徒たちの調査研究は、常に現実の厳しい生活問題を対象にしていた。そこには、無着先生の指導がひそんでいる。小づかい帳は、一年生の十一月から一斉につけはじめた。「自分の生活を勉強するためには小づかい帳をつけなければならない」ということになったのも無着先生の指導があったからだった。実際の調査の段階では、生徒たちは自分の頭で考えなければならない。小づかい帳を借りたものの、どうして調べたらいいのかわからない。みんなはため息をつくばかり。小づかい帳を見ながら、話し合いは脱線の連続だった。先生のアドバイスがあって調査は進み、生徒一人一ヵ月平均支出、一人一ヵ年平均支出、全生徒一ヵ年総支出を調べ上げた。調査はかなり本格的で、家の会計、学校の会計、村の会計なども調べて、村の総予算に占める学校予算が、小学校では7.6パーセント、中学校では6.14パーセントであることを報告している。そして義務教育の無償化を子ども等が提案しているのである。
学校予算については、
 「理科の時間、実験道具はありません。ただ本を読むだけです。村の予算のうち学校予算はせいぜい20パーセント以上でなければ、うまい学校教育はできないのじゃないでしょうか。」(つづく)