トーマス・マン、北杜夫、小塩節

 昨日の会津のまっちゃんのコメントへの返事、そのつづきです。
 北杜夫は、旧制松本高校では小塩節さんの三年先輩でした。小塩節さんは、ドイツに留学したとき、チューリッヒ郊外のトーマス・マンの家も訪れ、夫人と親しくなったと書いています。
 トーマス・マンは1955年(昭和30年)に亡くなっている。

 「トーマス・マンの墓には幾度か詣でたが、夫君の没後人嫌いになったという夫人の静謐をみだす気にはついぞなれずにいた。
 ある年の渡欧直前、松本の旧制高校で三年先輩の北杜夫さんから、スイスのダヴォスに行って『魔の山』の地理関係を確かめてくるよう頼まれた。『車でなく、小説どおりに登山電車で行ってください』と言われた。そのとおりにダヴォスを歩いてチューリッヒに戻り、墓参にタクシーを拾った。その運転手というのが紺のブレザーに真紅のネクタイ、左右五本の指のリングはまだしも、耳にイヤリングまでつけ、瞼にはアイシャドウという二十歳代のきざな男だった。墓地から下り坂の道をマン家にさしかかると、日本から来て黙って帰る手はないといって、急ブレーキをかけ、下りろと言う。植込みから真っ黒なドーベルマン種と思われる大きな犬が飛び出してきて、ふさふさした尾を水平にしたまま猛然と吠えかかってきた。私は車内に戻ろうとした。すると、きざな運転手が両の手を合わせて合掌し、犬に何か話しかける。すると、どうだ、なきやむではないか。男は門からすぐのドアのベルを押した。ドアが開いたとたん、男はさっと脇にかくれてしまった。仕方なく私はマン夫人に一言ご挨拶をしたいと申し述べた。‥‥
やがてチューリッヒ湖を見下ろす明るい居間に通された。突然の来訪をわびると、
 『突然じゃなきゃ、来れないでしょ』
と、老いてなお美しいお茶目そうな笑顔を見せ、
 『ゆっくりしていらっしゃい』
 初対面とは思えなかった。二、三分のつもりが数時間になり、湖面に対岸の燈火が映る夕暮れになってしまった。あの黒い犬が居間に入り込んできて、大きな目で私を見つめた。私はあわてて立ち上がった。タクシーはメーターを切って待ってくれていた。
 『人生、万事勇気でさあ』
という男の運転ぶりは少々勇気がありすぎるものだった。
それからは毎年訪ねることになった私を、夫人は手ずからケーキを焼いて待ってくれるようになった。‥‥
 夫人は安らかに亡くなり、山の上の改革派教会墓地の、夫君と同じ墓石の下に葬られた。彼女が好んだ黄色いバラを持って、私は先日も墓に詣でた。真四角な、飾りのいっさいないお墓である。」(「ザルツブルグの小径」光文社)

 小塩節は、その後、恩師望月市恵が手がけて下訳を作っていたものの高齢と大病のために完成が難しくなった長編小説「ヨセフとその兄弟」の翻訳を引き受け、トーマス・マン夫人の励ましを受けながら行なっている。訳は1988年に完成。そのときのことも「ザルツブルグの小径」に書かれている。
 望月市恵先生は穂高町に住んでおられたという。


 今日は一日雪降り。また「冬の旅」を聴きたくなってCDをかける。小塩節も「冬の旅」はよく聴いたと書いている。
 小塩は、ゲルハルト・ヒュッシュやフィッシャー・ディースカウのレコードを、擦り切れるほど聴いた。1962年の、恐ろしく寒い冬のドイツ、「冬の旅」の夕べがあると聞いて、小塩はボロ車を飛ばして90キロの道を出かけていった。ぼだい樹の並木のどこまでも続く道は凍結していた。朝十時ごろに昇った太陽は、地平線のすぐ上の灰色の層雲のかげに終日じっとかくれていて、三時ごろには沈んでしまった。
 町を見下ろす古い王宮でのフィッシャー・ディースカウの演奏は、小塩の胸にしみる絶品だった。危険を冒して凍てついた冬の街道を走ってきた甲斐があったと小塩は思った。

 雪は降り続き、昼と夕方の二回、雪かきをした。