敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <2>

 1945年8月15日、白鳥邦夫は海軍経理学校の生徒であった。その日、彼は日記にこんなことを記している。
 「12時、大元帥陛下の玉音を拝す。聖断ついに米英ソ支四カ国のポツダム宣言を受諾されたという。畜生!と思えど、聖断の一語が身を縛す。‥‥悲しみと憤りに生徒の多くはしばし泣き伏したり。‥‥正義は必ず勝つ。和平とは大和民族の滅亡を意味す。」(「私の敗戦日記」未来社
 8月20日、海軍経理学校は永久に閉校となった。が、「私の敗戦日記」のあとがきにこう記している。

 「学校長(海軍中将)から『二十年間の休暇を与える。時流にけがされることなく精進を重ねて、昭和四十年八月十五日には祖国再建のために、ふたたび銃を執ってたちあがろう』と命令されたと信じていた‥‥今考えると笑止だが、私たちは銃器に細工をしたうえで、学校うらの山間の沼の底に温存してきたのであった。‥‥
 ところで、私の戦後史は、実際には学校の言いつけにそむいて戦争よりは平和を志し、『ふたたびは銃を執らない』決心に変っていたし、この気持ちから不戦反戦を誓うことを中心としてできてきた『日本戦没学生記念会(わだつみの会)』の会員にもなっていた。」
 20年後に再び決起しようと誓った生徒たちだったが、白鳥邦夫氏はその後180度転換して正反対の方向に歩んでいった。それは当然の変化だった。終戦の歳の11月15日、白鳥は旧制松本高校に入る。11月19日、哲学を始めて習った。
 3年目、白鳥邦夫は小学校の教師になった。
 白鳥邦夫著「ある海軍生徒の青春 敗戦・愛・思想」(三省堂新書)のなかの、「第二章 可能性、赤い手袋の桜餅 ――小学校教師(昭和23年 20歳)」、では白鳥先生はどんな指導をしたのだろう。そしてクラスの子どもたちはどう変化していっただろう。部分部分を抜粋してみる。
 赴任したのは長野県上里村の小学校。6年松組の担任になった。

 昭和23年(1948)4月5日
2階の東の端に教室があった。白鳥先生は、新年度の出発に当たって、「六年生になって」という題で作文を書かせることにした。子どもの反応は、
「書くことねえよ、やったことねえから」
 白鳥先生、作文を読んで仰天。
 「六年は最上級だから、しっかり勉強したらいいと思います。一年生が困っているときなんか、めんどうをみてやる。おわり。」
みんな同じような作文ばかり。
 4月20日
 長野市で開かれている新聞展の見学をかねて、5年生と遠足に出かける。片道20キロ。出発のとき、女子がいない。「おれ胃が悪いから汽車で行ってもいいだろ」と前日言ってきた暁子がみんなをつれて汽車で行ってしまったのだ。男子も十数人汽車で行った。女子が反発する。
 4月下旬、一週間の家庭訪問。少しずつ実態が分かり始める。女子の中に力関係があり仲間はずれもある。ばらばらなクラス。
 白鳥先生は一大決心をした。大きな紙に「好きなことをしよう」と書いて教室の天井からつりさげて言った。
 「文江さんは午後腹が減るか。じゃあ、何か持ってきて3時ごろ食えばいい。満夫君は授業中マンガを読んでもいいぞ。宏君、パッチンしたいか」
 「したくねえ。校長先生がやったらいけないって言ってるもの」
パッチンはメンコのこと、大阪ではベッタンと言った。
 「先生がやってもいいと言ったらやりますか」
 「ほんとか。そりゃ、ありがた山のサンキュウ和尚だ」
 「いいか、みんなも自分の好きなことだけするんだ。腹が減ったら好きなときに弁当食べろ。パッチンもいいし、木登りもいいぞ。掃除がいやならするな。暁子さん、たまには学校休め。いいな、したいことを、したい時にして、したくないことは決してするな。ただし、ごまかしたり、人のものを盗ったり、ケンカするのは厳禁するぞ」
 子どもたちは体を硬くしている。その沈黙の状態を見て、白鳥先生は深刻な恐れを感じた。保夫が発言。
 「むちゃだ。そんなことしたらむちゃくちゃです。おら、反対だ。な、収ちゃん」
 「反対なら反対でいい。しかし、自分の考えを隣の人に押し付けてはいかん」
 教室が騒然としてきた。憤慨した保夫は泣きべそをかいている。うなっている収介。ぽかんとする夏子。抱き合って喜んでいる横町三人組の男子。ひそひそ話す女子。暁子が立ち上がる。
 「おら賛成だと思います。白鳥先生は勉強ばっかし教えすぎると思いまっす」
 嘉代が発言する。
 「戦争に負けたんだから何をしてもいいのだと思います。やってみてまちがったら直せばいいんです」
 4月30日
 和一は、叱られないとわかると、窓から縄をさげてターザン遊びを始めた。それから教室は終日からっぽ。数日すると、横町三人組の男子が授業に出席している。一人でも授業に出てきたら授業を進める。そのうち、男子は全員教室に復帰した。それから5月10日、女子が帰ってきて、教科書を取り出した。
 「好きなこと」運動は、5月中旬にはあちこちで問題となってきた。パッチンはやめないし、水曜日の朝会に出席しない。掃除をしないことも全校に知れ渡った。生徒会の整美委員が回ってきて成績をつけ、グラフに書いている。松組の成績が悪い。「おら、はずかしい」と言う子が出てきた。
 5月19日
 職員会議。女の吉井先生が発言。
 「どこかで、まだパッチンをしているクラスがあるやに聞きますが、もし事実ならすぐに止めていただかないと、私など自分の組の生徒に説明するのに困ってしまうのです」
 「それは私のところです。そう、たしか先生のクラスの生徒も昼休みにやってきてやっておりますね」
 「断然禁止すべきです。何度も確認されたことですから」
 「私も心がけてはいるんですが、生徒はクラス自治会で否決してしまうのです」
 男性の武田先生が発言。
 「それは白鳥君の指導性の問題ではないかな。自由といっても相手はまだほんの子どもなんだから、説明して納得させるのが本当でしょう。君の組だけというのがまずい」
 白鳥先生は考えた。「それは大義名分論という。大義名分論に反抗するのが私の仕事だ。学校が禁止するのは、バクチ化する不健全な娯楽だというが、帰宅後は黙認するというのはおかしい。」
 白鳥先生は、翌日のクラス自治会で子どもたちに、職員会議のことを伝えた。(つづく)