敗戦後の日本で、教育はどのように創られていったか <1>

 軍国主義に徹しているように見えた人が、敗戦後ころりと変って、民主教育を積極的に始めた。それを不信や懐疑の念で言われることがある。けれどその変化は少しも不思議なことではない。むしろ変って当然で、軍国主義体制のなかで戦争遂行に向かっていたその人の中にも人間の本来の生き方を希求するものが潜んでいた。だから体制が滅んだとき、混迷の世相に果敢に挑みながら、新しい社会へほとばしるように変化していった。その人が豹変したように見え、不信や懐疑の念が湧くのは、その人の変化の根底にあった必然的な理由が明らかにされなかったためでもある。
 一方で、変らなければならないにもかかわらず、本質的に変らなかった人も数多くいた。日本の戦後教育の中に、戦前の教育が生き残り続けたのは、その勢力が生き続けたからでもあった。国家主義教育の残渣は今も継承され生きている。

 今はなき槙枝元文さんが回想録でこんなことを書いていた。槙枝さんは1942年に召集され軍務に着き、1945年には臨時憲兵になって敗戦を迎えた。そして青年学校の教師に復職したときのことである。

 「私は戦時中、国民学校高等科の教え子二人を少年航空兵と満蒙開拓少年義勇軍に送りだしたことが、ずっと気になっていた。無事に帰ってきただろうか。
 青年学校に帰任したあと、すぐに役場に行き、二人の教え子の消息を調べた。少年航空兵はマレーシアに行く途中、撃墜されて戦死、満蒙開拓少年義勇軍に入った教え子は生死不明となっていた。私は衝撃を受け、『すまないことをした』と思った。
 さっそく、次の日曜日に、戦死した少年航空兵の家にお供えの花と線香を持って訪問した。玄関先で待っていた母親は、私の顔を見るなり私に飛びかかってきた。
 『先生は何ということをしてくれたんですか。お国ために軍隊に行けとか、一家一門の名誉だとか言って、私の息子を指名し、まだ徴兵検査を受ける歳にも達していない子を戦場に送り出して‥‥。先生が余計なことをしなかったら、いま元気で一緒に暮らしていたはずです。戦争には負けたし、あの子は死んだし、その責任は先生にあります』
母親は、あふれる涙を拭おうともせず、『あの子を返して』と叫び続けた。私は、ただただ『申し訳ありません』と深く頭を下げ、逃げるようにしてその家を退去するほかなかった。
 私は、戦前の教育に対する反省と責任という重い課題を抱えて悩んだ。それは教師として当然負わなければならない責務でもあった。
 もちろん、逃げ口上はいくらでもあった。戦前は『教育勅語』を金科玉条として『いったん緩急あれば国家に命を捧げよ』と教育し、文部省発行の国定教科書に沿って教えるのが教師の任務であり、天皇陛下を神と崇め、国に忠誠を尽くす臣民を育成するのが教師の使命だった。だから、『恨むなら文部省を』と言って逃げてもいいが、それは許されるものではない。国民の教育に対する責任追及の矢は、教育を直接施した教師に向けられるのだ。
 私はだんだん敗戦という現実を受け入れ、冷静に過去を振り返るようになっていった。」

 その後の槙枝元文さんの人生は、このときの厳しい反省が出発点となっている。
 1947年6月、終戦から2年足らずという速さで、日本教職員組合が結成された。その時のことは、山住正己が書いている(「日本教育小史」岩波新書

 「全国各地から、米など食糧をかつぎ、満員列車にゆられて代表が奈良の橿原に集まり、野外の会場で結成大会が開かれた。大会では、『日本教職員組合は全日本の教職員五十万の希望と意志と力との結集であって、新しい民主的秩序の建設と新日本文化の創造に偉大なる役割をになおうとするものである』と高らかに宣言し、次の三綱領をかかげた。
  一、われらは、重大なる職責を全うするため、経済的、社会的、政治的地位を確立する。
  一、われらは、教育の民主化と研究の自由の獲得に邁進する。
  一、われらは、平和と自由とを愛する民主国家の建設のために団結する。」

 槙枝元文さんは1971年に日本教職員組合委員長になられた。ぼくが初めて大阪で見かけたときはそのころであったが、その後総評議長に就任。晩年は、日中友好に尽力し、日中技能者交流センターを立ち上げ、家庭菜園を楽しみながら理事長として活躍された。そのときの槙枝元文さんは好々爺のようだった。2002年から8年間、ぼくも日中技能者交流センターの活動にたすざわらせてもらい、槙枝さんの舞台を一緒にできたことは幸せなことだった。タバコが好きで、いつもピースを放さず、関西風のウナギの蒲焼が好物だった。

 驚嘆するのは、「一億玉砕」を叫んで戦争が行われていたのは数ヶ月前なのに、敗戦から3ヶ月半後の12月1日には、生活を守り教育を発展させようと、東京において「全日本教員組合」を結成したことだ。その動きは全国に及んだ。その中核になったのは戦前、教員組合運動や民間教育運動を推し進めてきた人たちであった。日教組はそれから2年後の結成である。
 ぼくが小学校時代に教えてもらった松村貞一先生は師範学校軍国主義教育を受けて戦後2年目に教壇に立った方だったが、その先生の民主教育を創ろうとする情熱と自由な教育は小学生に強い影響を与えた。大阪市内の国民学校から南河内の田舎の学校へ疎開を兼ねて転校したぼくは、地元のワンパク連の輪に入れず、内気な意気地のない子どもであった。しかし、担任が松村先生になると、ぼくはみるみる元気になり学校が楽しくなった。松村先生は強いあこがれだった。松村先生の自由な創造的な教育の力が、眠っていた力を引き出し、子どもたちの人間性に影響を与えた。

 ワルシャワの下村五三夫さんが紹介してくださった白鳥邦夫著「ある海軍生徒の青春 敗戦・愛・思想」(三省堂新書)を読むと、白鳥邦夫さんが20歳のとき、旧制松本高校を出てから1年間小学校の教師をしていたときのことが書かれている。「第二章 可能性、赤い手袋の桜餅 ――小学校教師(昭和23年 20歳)」
 こんな教師がいたのか、こんな大胆な指導をしていた人がいたのか、それも戦後2年めの渾沌の中で。白鳥邦夫さんは戦時中、海軍経理学校を志願した愛国者だった。戦後その人は目を見張るような自由な教育を実践していた。(つづく)