加害の傷、被害の傷

 南の空を灰色と黒い雲が地表まで垂れ込めていた。見るからに雲の下は嵐を予感させた。怪しげなエネルギーを持った雲の様だ。
 雲に覆われている地帯は松本市の西部山岳地帯、山形村波田地区から、朝日村梓川、安曇地区、その奥に乗鞍岳穂高山群が静まっている。
 安曇野は晴れていた。だが雲に覆われた地帯から吹いてくる風は強い。雲の層はやがて安曇野にも押し寄せてきそうな気配がした。東の空からぐるっと北、西へと、頭をめぐらせば青空、頭上も青空だ。ランは軒下につないだままで来た。紅葉した東の山はくっきり、北西のアルプスは白雪に輝く。
 夕方が近づくにつれ黒雲の層は広がり、鍋冠山から西は雲に覆われた。家に帰る道はどっぷり暮れており、車のライトだけが野を照らす。今年初めて車の暖房を入れた。燃料が底をついていた。セルフのガソリンスタンドで燃料を入れて帰った。家は、嵐の到来を免れていた。強風に吹き寄せられた柿の落ち葉が道際に堆積している。
 すっかり冬になった。夜は風が収まり静かだった。
 午前4時ごろ、想念がまず頭に浮かんできて目がさめた。ガラス窓の外を見る。まだ深い闇だなと思う。完全に目覚めてはいない状態なのに、脳は思考していた。完全に起きているときは出てこない想念が意識のなかに浮かんでくる。
 ぼくは夢うつつの状態で考えていた。
 自分の人生のなかの罪がある。犯した罪は自らの心に突き刺さり、記憶の中から消えることはない。日常生活では、いかにも忘却したかのようにそれを意識せずに暮らしてきた。今生きることに没頭する余り。それゆえ自らの過ちが心に突き刺した傷は時の流れに打ち紛らせてきた。生きていくことは忘却していくことでもあるかのように。
 傷は加害の傷と被害の傷がある。加害の傷は、謝罪もできない過去のものだ。被害の傷はすでに諦めと赦しによって水に流したかのようで、傷のもとになった出来事は過去に遠ざかってはいるが、記憶は消えることはない。ときどき記憶がよみがえると傷がうずく。
 傷は完全に脳の中から消えることはない。他者から受けた被害の傷と、他者に与えた加害の罪による傷と、どちらの記憶も、生涯消えることはない。
 暗い。夜明けはまだまだだ。
 人を傷つけたと思う自責の念、それが眠りと目覚めのあわいに揺らぐ。取り返しのつかない数々の出来事。人に語ることのできない罪の記憶がある。ひとり心に持ち続ける罪がある。
 その想念の次に現れたのは、日本人としての罪だった。生き残った老いたる元兵士は、戦場で犯したひそかな罪を語ることもあった。しかし多くの元兵士は語ることなく逝った。今も逝く。
 「美しい日本をとりもどす」と安倍政権は言った。慰安婦の存在を隠蔽して美しい日本になるか。戦犯を神に祀り、それに参拝して侵略の罪は消えるか。暴虐の罪はなかったことにできるか。罪をあいまいにして高い道義を生みだせるか
 野の道を、粛々と歩み来る葬列がある。その光景がぼくの記憶に残っている。先頭を歩く太一叔父は胸に白い布に包まれた遺骨箱を抱えていた。遺骨はサイパンで戦死した茂造叔父だった。ひろ子という娘は2歳だった。もう一人の義雄叔父は、子どものいない親戚の跡取り養子になったが、召集されその叔父も戦死した。日本中どこにもあった悲しみと苦悩、家族の崩壊、それらの傷も静かに過ぎ去って、どこからも異議申し立てはなかった。戦争責任を申し立てる声は出なかった。この国、日本。
 戦後70年にもなろうとしている。が、記憶は消えない。被害の傷も加害の傷も消えない。消えない傷口に塩をもみこむような心無い言動がいまだに行われ、新たに生まれてくる、醜いと感じることのできない人間のもたらす傷が深い。

 次第に思考がはっきりして、ぼくは眼を開いていた。窓がいくらか明るくなっていた。朝が来た。