この国の廃屋、廃校、廃村 <2>

 奈良県下市町の広橋峠からさらに奥に入ると丹生の地がある。そこに中学校の廃校があった。13年前のことである。子どものいない運動場に草が生い茂る。校舎の壁をツタが這い上り、二階の教室の窓から侵入していた。木造校舎のスタイルは明治以来の学校建築の典型である。なんとも懐かしい校舎だった。
 集落に住む人が自転車で来てくれた。60代くらいに見えるその人は区長をしているということだった。
 「この部落はもう、オイチニ、オイチニ、ヤスメ、ヤスメですよ」
 子どもたちが隊列を組んで歩くときの掛け声のことかと思ったが、聞くと、
 「イチは一人暮らし、ニは夫婦二人暮らし、ヤスメは無人の空家、全部高齢者ばかりですわ、一人暮らしの家の隣は二人、その隣はまた一人、次はまた二人、それから空家、空家です」
 人が去り廃屋が増え、子どもが減って廃校になり、高齢者だけが残った。村の祭りもなくなり、やがて限界集落におちいる。待ち受けるのは廃村という運命だっだ。

 本田靖春は著作「村が消えた」(旬報社)のなかで、詳細に青森県六ヶ所村上弥栄部落の歴史とそこに生きた人びとの記録を伝えている。
江口秀という女性が登場する。
 昭和9年、秀は移民の先陣として「満州」に移住する。傀儡国家満州国が建国されて2年目、大陸の花嫁として要請され結婚を受け入れた結果だった。開拓団の村は弥栄村、そこで秀は学校づくりを行っている。
 「昭和9年11月、弥栄小学校の開校にこぎつけた。このとき迎え入れた児童は7人だった。オンドルにアンペラを敷き、その上に七つの机を並べて、二十四時間起居をともにしての生活である。教師は秀一人、二人の賄婦が食事から入浴までいっさいの面倒を見た。日没から明け方まで、学校を二人の歩哨が守った。」
 広大な大地を開拓する親たちは労働に忙しい。子どもたちを育てる役割を秀は担った。現地の人たちを追い出してそこに入植した日本人に対して、抗日の武装自衛軍が組織されていた。関東軍が指揮し、日本の開拓団も武装した。しばしば襲撃、戦闘が起こった。昭和12年には弥栄入植者は493人になった。
 戦局は悪化の一途をたどった。1945年、日本は敗戦を迎え「満州国」は消滅する。開拓団の逃避行はまた辛酸をきわめた。秀は、12年間に及んだ「満州開拓」から命からがら日本に帰った。
 秀が三人の子どもと六ヶ所村にやってきたのは昭和22年(1947)だった。六ヶ所村陸の孤島と呼ばれ、教師になる人がいない。秀は、新設の戸鎖中学校に迎えられた。
 その翌年、上弥栄に小学校をつくろうという動きが起こる。上弥栄の子どもたちは、隣の部落の分校に通っていたが、上弥栄部落の暮らしがあまりにも貧困であったから六ヶ所村のなかでも低く見られていたのだった。
 「上弥栄の子どもたちはそろって服装がみずぼらしかった。冬季には教室で焚くストーブの燃料を児童が持参するのだが、それがままにならない上弥栄の子どもたちは、学校の薪持ってこねからあたらせね、と仲間はずれにされることがあった。」
 部落の人たちは県に働きかけ、補助金をだしてもらい、足りない資金は地元で負担することにして、小学校建設の許可をとる。地元の負担金は各戸が営農資金を借りてそれを充当した。
 「労働力は各組に割り当てられ、基礎を打つにも、砂利を運ぶにも、いっさい他人の力には頼らない。こうして24年11月3日、開校式にこぎつけた。」
 上弥栄の人たちの暮らしは、畳はなく、床にゴザを敷いただけだった。風呂は野天のドラム缶風呂だった。
 秀が上弥栄小学校の校長に転任したのは30年の春だった。上弥栄の暮らしは貧しかった。
 「農道にほうりだされた幼児が、草をむしって口に運び、あたりを泥だらけにしたりしていた。うごめく青虫を口に入れたりする子もあった。その年の6月、二週間の農繁休業の期間を選んで、秀が『私設託児所』を開いたのは、そうした幼児たちの姿に胸をつかれたからである。秀は、校長の独断で、小学校の二教室を80人の幼児に開放した。教師たちは休みで不在だから、遊びにやってくる在校生が彼女の手足となって、幼児の面倒をみる。おやつとか、クレヨン、画用紙、色紙などは、彼女の私費でまかなわれた。」
 この試みは母親たちの大きな助けとなり、31年、32年と続いた。秀は3年の実績を記録にとって、県に対して保育所の設置を訴えた。上弥栄では、ほとんどの家庭で子どもがまだ小さく、夫婦だけが働き手だった。保育所がなければ、暮らしは成り立たない状況であった。

 2001年、内橋克人は「『国家』なるものを問い続ける」という解説に書く。
 「『再びの日本』として彼らを受け入れた六ヶ所村は27年を経て入植者たちを放逐し、さらに28年余をへだてて、いま、核燃料廃棄物処理基地と石油備蓄基地へと姿を変えて、その地にある。」

 「従順な『国民』たちは、またしても『国家的事業』に殉じたのである。上弥栄の人びとの大多数は、農民としては滅んだ。それを仕向けたのが『国家』だとして、いったい『国民』とは何であるのだろう。」(本田靖春