カフェがほしい、

<前穂高東壁 その下が奥又白 蝶ヶ岳から>

 コーヒーを飲まない日は寂しく、たっぷり飲んだときは満ち足りた気がする。コリコリとコーヒー・ミルを回して、香りをかぎながらお湯をそそぎ、たっぷり大きなマグカップにコーヒーを淹れる。いっとき家内は生豆を焙煎もした。ほうらくを大阪の石切神社の参道にある店に売っていると聞いて、大阪の友人に頼んで買って送ってもらったことがある。ほうらくは底の浅い素焼きの土鍋、友人は割れないように厳重に紙を重ねて包装してくれていた。その土鍋で家内は炒ったが微妙な味加減の真髄を発見するまでいかず、今は焙煎した豆を買ってくる。
 中国の武漢にいたとき、コーヒーを飲みたくなってカフェを街なかでさがしたが、おいしいコーヒーの飲めるカフェがなかった。コーヒーも飲めると聞いて入って注文したら、大概期待はずれだった。専門のカフェそのものがなかった。今はすっかり事情が変わっているだろうが、カフェというのは、おいしいコーヒーが飲めるだけでなく、飲みながらくつろぎ、楽しいおしゃべりが花咲く雰囲気が必要条件になる。
 栃木の那須野に住んだとき、那須高原へよく行った。そこで見つけたカフェは完全なコーヒー専門店だった。「しょうぞう」という名前だったが、漢字は忘れた。初めて店を探しに行った時、店の前にはいっさい看板がないから、店の前を車で何度も行ったり来たりするのだが、店を特定できなかった。やっとその店を知って玄関のドアを確認すると、まったくこれだけ?と驚くような小さな札がかかっていて、そこに「しょうぞう」という小さな文字があった。入るといろんな種類のコーヒー豆がケースに並べてあり、豆から焙煎して挽いてくれる。椅子や机は、これはまたリサイクルショップから集めてきたのかと思えるような、全部異なるものばかりで使い古したものだった。そういう粗末な感じにもかかわらず、雰囲気は生活感が調和して、心になじんでくる。店の一角には詩集が何冊か置いてある。ぼくはそこで茨木のり子の「日曜の朝 コーヒーの香が流れ」という詩集を読んだ。窓の外は静かな雑木林、一時間でも二時間でもそこにいて、思索にふける人がいた。
 今年7月に訪れたオーストリアのウィーンにはカフェが街のいたるところにあった。そこはカフェ文化が熟成していた。今朝の朝日新聞に「耕論 コーヒーブレイク」の特集があり、東大名誉教授の臼井隆一郎氏がこんなことを書いていた。
 「ドイツ文学にはコーヒーにまつわる小説や詩が多く、その縁もあって世界史との関わりを研究してきました。そこから見えるのは民主主義や市民革命の培養土になった隠れた役割です。」
と述べて、オスマントルコの社交場「コーヒーの家」、ブルボン王朝の要人を招く「コーヒー外交」、1719年にはパリには300軒のカフェがあった、そして70年後カフェは王朝打倒の溶鉱炉になった、と書いている。
 「カフェが隆盛の時は、人々の自由度が高いということです。民主主義が花咲いたワイマール共和国当時はドイツで最もカフェがはやった時代でした。ここを根城に革命家や社会主義者が活動します。
 戦後の日本にも若者が集まって議論する場になる時期がありましたが、今林立する米国生まれのコーヒー店では似合いません。しかし、カフェは与えられるものではなく、自分で作るものです。議論した世代が青年に自宅をカフェに開放したっていいんじゃないでしょうか。
 忘れてはならないのは、コーヒーが中南米やアジア、アフリカの国々の低賃金労働に支えられた商品だということです。コンビニの100円コーヒーはありがたいが、せめて価格の1割でも上乗せして、生産国に戻す仕組みをつくることが、コーヒー享受者の義務でしょう。」
 なるほど、もっともだと思う。安ければいいというもんじゃない。コーヒーの栽培技師の川島良彰さんはこう言っている。
 「タイやルワンダなど生産国で技術指導をしてきた私は、消費国との懸け橋として世界を変えていきたい。生産者の生活を少しでも良くするためには、品質相応の値で継続して買ってもらうことが必要です。コーヒーは日陰で育つので、森の木を切らなくても、間に植えていけばいい。現地の住民もコーヒーが収入となるので、木を切らず、動物を殺さず、森を守ってくれる。コーヒーの可能性は無限大なんです。」
 ぼくの住む安曇野には、実にカフェが少ない。カフェ文化が育っていない。コンビニでコーヒーは買えるし飲めるが、カフェではない。クラシックな雰囲気の、心休まり談論できるカフェが家の近くにできないかな。