この国の廃屋、廃校、廃村 <1>

 伊賀から津まで伊賀越えをしたことがあった。ひとり芭蕉も歩いただろう道を黙々と歩いていくと、山の中に廃屋があった。人が住まなくなって何年たっているのか、かつて人が住んでいた名残りをあちこちに残していて、当時のカレンダーが壁に残っており、火の用心の札が貼ってあり、電灯の笠もぶらさがっていた。燃やされることなく残された薪もあった。人の痕跡はしみじみとなつかしい。ここに何十年か人が住んでいた、子どももここで生まれ育っただろう。そこに人が住んでいたということはこんなにも人の心をひきつける。ここを去らねばならない事情があってここを去っていった。人が去った後、森の木々は軒まで迫り伸びていた。人が去るということはわびしい。無言の廃屋は寂寥感に満ちている。

 吉野の下市から大峰山へいくつも峠を越えていく街道をたどったことがあった。その一つ広橋峠に小学校の廃校があった。木造2階建ての小さな学校は、峠のてっぺんにあって大和盆地を見下ろしていた。盆地のかなたに金剛山が見えた。かわいい運動場があり、かつて運動会の日には村人たちを沸き立たせ楽しませただろうと、グランドの土になつかしさがこみあげた。明治時代に建てられた校舎は、子どもたちのために林業で栄えた吉野の木材がふんだんに使われ、あまたの台風にも雪にも耐えて凛然と立っていた。広橋小学校は、明治7年、村の寺の「開明社」として創立した。校門近くに校歌の碑があった。吉野に住んだ歌人前登志夫が作詞していた。

     峯ひかる わがふるさと
     山なみの 空ひろびろと
     雲はしる 雲もえる
     この丘の上の
     明るい 広橋小学校
     手をつなぎ 未来を呼べば
     金剛山が ほほえむよ
     向こうに

 小学校はふるさとの中核だった。村人の誇りであった。村人たちはそこに通う子どもたちに未来を託した。しかしそこは今廃校となっている。

 宮城県の開拓部落へ行った。酪農によって新しい村をつくろうと夢を描いた入村者は、その地を「乳と蜜の流れる場所」にしようと思い、部落の真ん中にその言葉を書いた標識を立てた。「乳と蜜の流れる場所」という言葉は聖書にある。神が約束した土地であることから約束の地と呼ばれる。入村者の夢は小学校分校建設に向けられ、分校が生まれた。校内にある記念碑に、凍土を掘り汗を流した村人たちの夢が刻まれている。その学校もまた廃校になっていた。

 青森県六ヶ所村、明治のころから陸の孤島とよばれてきた寒村。1945年の敗戦をきっかけに満州からの引揚者が入植した。十六の開拓部落の名前に開拓者たちは「富」「幸」「睦」「豊」の文字を入れたたが、その願望は名前とは縁遠いものだった。
 「辛酸などというありきたりの表現ではとても足りない。それこそ『血と涙、汗と労苦』の四半世紀が過ぎて、やっと安定がほの見えてきた矢先、開拓部落のいくつかが、解散へと追い込まれる。その一つ、上弥栄部落はすでにない。四十三戸の人びとは、開拓地を明け渡してちりぢりに去って行った。彼らの主力は、かつての満州開拓者であり、揺れ動く昭和史は生涯に二度、自ら切り拓いた土地を追われるという苦渋を、この人たちに強いたのである。」(本田靖春「村が消えた」)
 何が起こったのか、それは経団連の首脳が部落に来てから始まる。山林、原野、農地は次々と買収されていった。県は「公害のない巨大開発と、これと調和した近代的農林漁業の育成」というスローガンを掲げた。国の打ち上げる「わが国将来の工業開発のモデルとなる国家的巨大開発事業」の始まりである。札束が動いた。
 「いま、上弥栄に、その七十九戸は跡形もない。冬、旧上弥栄小学校のあたりに立つと、積雪がかつての営みの跡を一面に覆い隠して、目にする変化はゆるやかな高低に光と影が描き分ける白の濃淡と、その先に取り残された防風林の薄墨色くらいのものである。広がる風景は、まさに地果てのそれであって、小学校の廃屋は荒地に挑んで空しく終わった七十九戸の墓標と映る。」