愚かだったと悔いた、高村光太郎「山林」

高村光太郎は、日本の敗戦後、岩手県太田村の山の小屋にひきこもり、「暗愚小伝」という数編の詩を書いた。
その詩集「典型」の序文に、こんなことを書いている。


「ここに来てから、私はもっぱら自己の感情の整理につとめ、また自己そのものの正体の形成素因を究明しようとして、もう一度自分の生涯の精神史をある一面の致命的摘発によって追及した。
この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られていたかを見た。
そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至って魂の戦慄をおぼえずにいられなかった。」


戦争中に戦争を賛美し協力する詩を書いた光太郎は、
終戦後、振り返れば、なんと自分は愚鈍な、愚劣の典型だったことか、と思う。
自分はどんな精神史を歩んできたか、自己を振り返るいとなみを、ひとり山小屋に暮らしながら行なった光太郎。


「暗愚小伝」の詩稿のなかに、こんな詩の断片がある。
戦争中、光太郎の詩を読んで死んでいった人がいたのだ。


       わが詩をよみて人死に就けり


   爆弾は私のうちの前後左右に落ちた。
   電線に女の大腿がぶらさがった。
   死はいつでもそこにあった。
   死の恐怖から私自身を救ふために「必死の詩」を必死になって私は書いた。
   その詩を戦地の同胞がよんだ。
   人はそれをよんで死に立ち向かった。
   その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送った
   潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。


山小屋に閉じこもった光太郎は、畑で作物を作り、冬はいろりの端で吹雪の夜を過ごした。
「山林」という詩は、村の暮らしの中で自分の生涯を振り返る詩をつづってきた末に生まれた。


        山林

   私はいま山林にゐる。
   生来の離群性はなほりさうにないが、
   生活はかえって解放された。
   村落社会に根をおろして
   世界と村落とをやがて結びつける気だ。
   強烈な土の魅力は私をとらへ、
   撃壌の民のこころを今は知った。
   美は天然にみちみちて
   人を養ひ人をすくふ。
   こんなに心平らかな日のあることを
   私はかつて思はなかった。
   おのれの暗愚をいやほど見たので、
   自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
   自分に鞭(むち)する千の非難も素直にきく。
   それが社会の約束ならば
   よし極刑とても甘受しよう。
   詩は自然に生まれるし、
   彫刻意欲はいよいよ燃えて
   古来の大家と日毎に交はる。
   無理なあがきはしようとせず、
   しかし休まずじりじり進んで
   歩み尽きたらその日が終わりだ。
   決して他の国でない日本の骨格が
   山林には厳として在る。
   世界におけるわれらの国の存在理由も
   この骨格に基くだらう。
   囲炉裏(いろり)にはイタヤの枝が燃えてゐる。
   炭焼く人と酪農について今日も語った。
   五月雨はふりしきり、
   田植えのすんだ静かな部落に
   カッコウが和音の点々をやってゐる。
   過去も遠く未来も遠い。


「撃壌の民」とは、「太平の民」のこと。村の民は、平和を望み、争いを好まない。
土にいき、ともに安らかに生きることを願う。
光太郎は、太田村に暮らして、農民の心を知った。そして、
「おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭(むち)する千の非難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。」
どんなに批判され、罵倒されても、又極刑でも甘んじて受け入れようと思う。


光太郎はこのように自己を批判する。
暗愚というなら、人はみな多かれ少なかれ暗愚をかかえて生き、
まちがったことをしてしまう。
国の権力機構がたくらみ、国あげて戦争に埋没した日本だったが、どの国もどの民族も、その歴史の中には集団の狂気が攻撃性を噴出させたときがあった。
集団が狂気をはらむと、ひとりひとりの平和を望む心が消されてしまう。
日本のこのときの、国民的体験を、風化させ忘れ去ってしまってはならない。


先日NHKが特集をした。
1937年(昭和12年)に日中戦争を侵略であると批判、「戦争は罪悪である。」と反戦を唱えた岐阜・明泉寺の僧・竹中彰元は、
陸軍刑法に抵触するとして有罪判決を受け、戦争に協力する教団から寺を追われた。
教団は戦後、戦争に協力した罪を明らかにし、不戦の誓いを立てた。
竹中彰元の名誉の回復がなされたのは戦後70年経った2007年だった。
このような人がいたこと、そのことで謝罪し、再び戦争に加担しないと宣言し、
反戦僧侶の名誉を回復した教団があったこと。
重い歴史を知ることは未来をつくることだ。


日本の骨格は、農山村にあると、光太郎は暮らしてみて知った。
現代、かみしめる言葉であると思う。