長田弘の詩、三編 (その三)



 長田弘の「詩の樹の下で」という詩集のモチーフは、幼少期の記憶がもとになっている。
「わたしの幼少期は、そのままこの国の戦争と戦後の季節にかさなる。わたしのものの見方、感じ方、考え方の土壌をつくったのは、その時代に緑なす風景のなかに過ごした少年の経験だった。」
 心に残る一本一本の樹形をたぐりよせて、幸福の再確認の書となるべきだった「詩の樹の下で」という詩集はそうはならなかった。春近く、病に襲われ、手術が決まっていったん我が家に戻った時に、東日本大震災原発の大事故が起こった。長田は福島の出身であったが、長く東京に住んでいて、この大地震を経験し、その直後に11時間に及ぶ手術を受けた。入院生活を終えて家に帰った長田は、はてしもない異様な寂寞を感じた。
 「被害を受けた福島の土地の名の一つ一つは、わたしの幼少期の記憶に深く結び付いている。幼少期の記憶は『初めて』という無垢の経験が刻まれている。いわば記憶の森だ。その記憶の森の木がことごとくなぎ倒されていったかのようだった。」
 長田はこの詩集に、散文詩で、「夜と空と雲と蛙」というのを書いている。そこには福島にまつわる昔の詩人や作家が登場する。幸田露伴高村光太郎・智恵子、山村暮鳥草野心平


 福島二本松の町、ひとり星空の下で野垂れ死にしかけた一人旅の幸田露伴。一晩かかけて郡山まで歩いた。
 「露伴さん、露伴さん、幸田の露伴さん。風吹く野辺で、あなたはそのとき、二本松の夜空に、何を見たのですか。北斗七星と何を話したのですか。いま、2011年、二本松の夜空は、あなたの見た夜空とは違いますか。ずっともっと無明の空ですか。」


 東京にはほんとうの空がないと智恵子は言った。ほんとうの空が見たいと言った。
「阿多多羅山の上に毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」と高村光太郎は詠った。智恵子の家は二本松にあった。
「光太郎さん、光太郎さん、高村の光太郎さん。あなたが彼女を喪った後につづいたのは、昭和の戦争の時代、暗愚の時代です。いま、2011年、そっちから安達太良山の上の空が見えますか。ふたたびは失くしてならない『ほんとの空』が見えますか。」


 山村暮鳥は福島の今のいわき市で暮らした。
「おうい雲よ ゆうゆうと 馬鹿にのんきそうじゃないか どこまでゆくんだ ずっと磐城平のほうまでゆくんか」
と暮鳥は詠った。
 「麦の穂。畑の菜。岬。静かな木。秋の入り口。聖フランシスの顔のような林檎。
『一日も余計に生きさつせえよ』
村の人の別れの言葉。あなたの愛したものらが、暮鳥さん、暮鳥さん、山村の暮鳥さん。あなたの住まう天上から、いまも地上に見えますか。」


 草野心平は、蛙の言葉で詩を書いた。心平は、福島の阿武隈山脈の小村に生まれ育った。どこにいようと、天を仰いで泥にひそんで生きる蛙たちとともに生きているんだと確信していた。
 「心平さん、心平さん、草野の心平さん。地球とはあきれたことのあふれる場所だと、あなたはいつか慄然と笑って言いましたよね。あなたはいまどこから眺めていますか。あなたのいない地球を。慄然と笑うほかない地球を。」