生きるために

 

 1960年代から70年代にかけて、学生運動が激しかったころ、学生たちに思想的影響を及ぼした故吉本隆明。彼には二人の娘がいて、その一人が随想を出版している。題して「隆明だもの」、そのなかにこんな一文がある。

 

 「父が亡くなる4、5カ月前、初冬の寒さを感じる夜に、玄関でガチャンという音がした。あわてて行くと、父が転がっていた。杖を握りしめ、セーターに愛用の帽子、ベルトもしめていて、明らかに異常だ。こいつはーー野垂れ死にするつもりで出ていこうとしたな、助け起こすと、ガラス玉のような目をしていた。

 引っ張り上げて、キッチンまで連れてくると、父はさっさと服を脱ぎ、無言で寝所に行ってしまった。私は情けなくて涙が出た。お前は野良猫か! この家は安心できない場所なのか!

 脚が不自由な父なんて、玄関を突破しても、数十メートル先で転んで立てなくなり、パトカーか救急車を呼ばれるのがオチだろう。

 老人が、家や施設を抜け出し、行方不明になったり、事故に遭う話はあとを絶たない。彼らは単に、帰り道が分からなくなっただけだろうか。ネコは死を予感すると姿を消すと言われているが、動物はすべて死ぬ瞬間まで生きようとしている。そろそろ危ないかという野良猫が軒下の暖房入りの箱にうずくまっている。でも、ある日、力を振り絞って箱の外へ出て、へたりこんでいた。また暖かい箱の中に戻してやると、翌日、十歩ほど進んだところで、力尽きて死んでいた。ノラは、死ぬために出ていくんじゃない。一歩でも二歩でも、自力で生きるために出ていくんだ。

 生ぬるい家も、家族も、いらない。

 最後には真の自由と孤独の時間を生きるために、

 全ての老人も出ていくのだ、と思う。」

 

 父親、隆明をぼろくそに言う娘、その言葉の中に深い愛情がこもっている。