高村光太郎と尾崎喜八<わが自責>

 突如よみがえってきて、自責の念に胸がきりきり痛むときがある。自分の人生の中で、自分がおかした間違い、罪と言いたいことがらである。そのとき罪だと意識しなかった、が、自分の脳は、それは間違いだと峻別して記憶の中にすべて残している。
 光太郎と喜八は、戦争協力という作家活動による後悔、自責の念があった。

 高村光太郎は、戦時中、戦争協力の詩を書き国民を鼓舞したことを、敗戦後痛烈に恥じ、自分は愚かだったと自己を岩手の山中に流謫(るたく)し、8畳ほどの小屋に住んで畑を耕し自炊した。戦時は国民ほとんどみんなが「火の玉」になった時代である。多くの文学者もまた、反戦・非戦の立場に身をおくのではなく、同調し、旗を振り、身を「愛国」に任じたのであった。
 光太郎を敬愛した尾崎喜八も、戦時中戦争協力の詩を書いている。そして彼もまた戦後自責の念にさいなまれた。喜八は、こんな文章を残している。
 「昭和16年12月8日、ついにアメリカ・イギリスに対する天皇の宣戦布告を聴いた。ここにいたるまでの、ことの真相に一切無知の私は愚かにも単純に国難を信じた。前線で尽くすことのできない国民の義務を、後方で一致団結している同胞とともに果たそうと思った。そして求められれば、いわゆる愛国の詩も書き、請われれば隣組長にも防空群長にもなって働き、要請を受ければ講演の旅にも出た。しかし、決して憎悪をあおって、おのれのペンや口を汚したことはなく、ひたすらこの戦いに同胞すべての清からんことを熱願した。そしてひそかに死を覚悟していた。」
 「たとえその本心がかつての輝かしい普遍的人類愛の理想から墜落して、そこに私が生をうけそこに生き甲斐と仕事の喜びとを受けている祖国へのみじめな忠誠、同胞への血縁的で盲目的な愛の衷情へと落ちこんでいったとしても、それが常に無私のものだったことは断言できる。この無私の本心、この良心の、はなはだ一地方的で狭隘(きょうあい)なものだったことを私はみとめ、後になって明らかにされたような事情に一切無知だった自分の愚かさを私は恥じるが、また他方天皇と祖国との名において、命を捨て、命を失い、数年にわたる艱難をなめてそれに堪えた当時の同胞と、常にまごころをもって結びついていたことはいまに及んでもなお私の慰めとするところである。」
 「無残な荒廃の跡に立って、私は元来人間の幸福と平和とに捧げるべき自分の芸術を、それとは全く反対の戦争というものに奉仕させたおのれの愚かさ、思慮の浅さを深く恥じた。私は慙愧と後悔に頭を垂れ、神のような者からの処罰を待つ思いで目を閉じた。そしてもしも許されたなら今後は世の中から遠ざかり、過去を捨て、人を避けて、全く無名の人間として生き直すこと、それがただ一つの願いだった。そんな時、終戦の翌年の春のある夜、ふと私から、この詩が生まれた。悪夢から覚めた詩人の良心の、まだどことなく頼りない、音をひそめた最初の歌のしらべだと言うべきであろう。」

 その詩が「告白」であった。嵐の時代、苦難の時代を過ぎてきた人、喜八の発見。心に山があり、川があり、花園があった。


         告白


    若葉の底にふかぶかと夜をふけてゆく山々がある。
    真昼を遠く白く歌い去る河がある。
    うす青いつばさを大きく上げて
    波のようにたたんで
    ふかい吐息をつきながら 風景に
    柔らかく目をつぶるのは誰だ。
    それとも雲か。

    疲れているのでもなく 非情でもなく、
    内部には咲きさかる夢の花々を群らせながら、
    過ぎゆく時を過ぎさせて
    遠く柔らかに門をとじている花ぞの、


    私だ。