山の呼び声を聴くと 重いキスリングザックを担いで、大阪から夜行の蒸気機関車に乗って、ぼくは信州に出かけた。夏、冬、春、何度か鹿島槍ヶ岳に登った。大町から田舎のバスで鹿島の部落に入った。60年も前のこと。
鹿島槍ヶ岳に登る時は、山奥の鹿島部落の農家、「狩野(かのう)のおばば」と呼んでいた人の家によく泊めてもらった。おばばはいつも笑顔で迎え入れ、囲炉裏の火のそばで、湯気の立つ飯に、温かい味噌汁と、鉢に山盛りの野沢菜の漬物を出してくれた。宿代というのは特になく、相棒の北さんとぼくは、土産に持ってきた大阪名物の菓子「アワオコシ」の包みの間に紙幣をはさんで置いてきた。
雪解けが始まっていた。おばばの家のすぐ外に、おばばが野沢菜を洗う小さな水路があった。
「生きて帰ってきてください、生きて帰ってきてください」
出発する時、おばばは泣きそうな声で言った。腰が少し曲がっていた。
無事に山から下りてくると、おばばは、大喜びした。目に涙があった。
それから何年後だったか、おばばが亡くなったのを知った、山岳雑誌「岳人」の記事だった。「鹿島のおばば」を愛し、偲ぶ岳人が多くいたのだ。
随筆家で登山を愛した串田孫一が書いていた。
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春先になって、山奥の雪もかたくなっていた。たった一つの教室、そこには村の6人の子どもが通ってくる。部落の戸数は20戸にもならない。薪ストーブを囲んで、毎日、子どもたちは、一人の若い先生から教わっていた。その集落から小学校までは歩いて3,4時間はかかる。そのために分教場ができているが、雪の季節は分教場へさえ通うのが無理となり、冬の間だけこの集落に先生が一人やってきて教室をつくる。
朝、子どもたちはスキーをつけて、先生の泊っている家に迎えに来た。年上の女の子は、こまごまと先生の面倒を見ていた。
暮れ方、私が山から下りて来た時だった。オルガンの音が聞こえてきた。子どもたちはすでに家に帰り、誰もいない。私は、幻聴かと思ったが、それは先生がひとりでオルガンを弾いているのだった。先生は、たどたどしく初歩の指使いで練習をしている。私は、山を眺めながら、オルガンがいかに初歩であろうと、得難い演奏であることを喜んだ。
やがて先生は練習をやめ、教室から現れた。そこに私がいた。先生は顔を赤らめ、わたしは音楽が一番苦手で、この夏に資格試験を受けなければならないので、‥‥と話した。
私は、それがどういう試験なのか分からない。だが、こんな僻地でこそ何かすばらしい音楽と出会うのではないかと思ったが、それを言葉として若い先生に伝えられなかった。
4月になった。6人の子どもたちは、1時間ばかり歩いて、分教場の方に通うことになった。若い先生は、自分のことはどうなるか分からない、と言った。
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「僻地」と題した短い文章だった。読んだ後、心に残るものがあった。この若い先生は、たぶん教員資格がまだ無かったのではないか、その試験をとろうと、オルガン練習をしていたのではないか。一冬の出会い、その記憶は子どもたちの心の中に生き続けていくことだろう。6人の子どもたちとの一冬の生活、子どもたちにとっても、その記憶は生涯心に残ることだろう。