教育の中に巣くう不正

 昨日のつづきを書いておこう。
 1966年、大阪市内で「最も教育が困難な学校」と呼ばれていたその中学校に赴任したぼくは二年生を担任し、早速登山部をつくって、子どもたちと山に登った。「最も教育が困難な学校」と世間で言われていたが、クラスの子どもたちも登山部の子どもたちも、他校の生徒よりも純朴に思えた。授業の合間の休憩時間や放課後になると、生徒が職員室に遊びに来る。しかし被差別部落の子どもたちの進路になると明らかに不平等な状況があった。高校へ進学せず就職する子が多かったが、就職先は閉ざされていた。世間の、被差別部落に対する差別意識は、隠然と存在した。校区に在住しながら他の校区の学校に通う越境通学は部落差別だと、部落解放運動の指弾が燃え上がっていくのはこのころからであった。
 校区の学校へは通わず、被差別部落のない他の教育環境のいい学校へ越境して通学するのは、地元の学校が劣悪な教育条件にあること、荒れる生徒の存在、進学に不利だという思いこみなどが原因になっていた。
大阪全市にある小中学校は明らかな格差があった。有名校・名門校と言われる学校には、越境して生徒が集まり、施設設備も整い、進学にもいい成績を上げていた。
 「ひらめ」教師のあこがれは、そういう有名校の教師になり、やがて校長になっていくことであった。「ひらめ」教師とは、目が上を向いている教師、すなわち上の地位をねらって生きている教師である。ぼくの目の前で、平然と校長のかばん持ちをする教師がいた。大学の同期の友人のひとりは、教師になるときから、この出世の道を順調に歩む人生設計をしていた。大学を卒業すると、トップの有名校の教師になり、やがて校長に上りつめ、退職して私立大学の講師となっている。
 ぼくの赴任した学校の教師は若い人が多かった。彼らはほとんど大阪以外の地方から来た人たちだった。その学校への転勤を希望する教師が地元大阪出身者にいなかったこと、赴任を求められると拒否する人が多かったために、事情を知らない他県出身の教員が集められたのだった。
この当時、学閥人事が生きていた。出身大学によって閥があり、その学閥が学校のなかにも存在した。市の人事において、学閥は競って自分の組織に所属している教師に校長職を獲得しようとした。したがって校長になるためには、学閥の組織に入り、先輩校長や教育委員会のなかにいる学閥のボスに取り入らなければならない。そこで金銭が動いた。学閥汚職である。
 これが警察によって摘発され、学閥人事の権力をにぎっていた教育委員会の指導室長や賄賂を受けた校長は逮捕された。大阪市職員組合は、教師は自ら学閥から脱退して、汚職を追放すべしと、自ら組織内改革に取り組み、教育委員会への糾弾闘争を展開した。1970年だった。
 学校のなかの校内人事も、管理職人事も、転勤という人事も、およそ人事という人を動かすところには私情もまたからみやすい。
 学校の民主的な教師集団が成立していく条件に、不正のない、平等な人事がある。そうして教師が生き生きと、創造的に教育をつくっていく職場が生まれる。
 1969年、教育委員会に単身乗り込んでいった原田校長は、有名校の校長のような道を歩まなかった。学閥人事汚職が摘発される直前、彼は肺がんで亡くなられた。言葉数の少ない質朴な人だった。