鹿島槍ヶ岳と鹿島のおばば

 1961年春に、北さんと二人、鹿島槍ヶ岳の東尾根を登攀した記録(山日記)には、鹿島部落の「狩野のおばば」のことも書いていた。ぼくは23歳、おばばは80歳を超えていただろう。
 鹿島部落は、大町から乗り合いバスに揺られて、鹿島川沿いのいちばん奥にある、山に囲まれた戸数わずかな集落だった。いつもお世話になるのは狩野家、突然やってきて、食事をいただき、時には泊めてもらう。おばばは、いつも若い登山者をもてなしてくれた。「生きて帰ってきてください」、それが山へ出発する時の見送りの言葉だった。この前登っていった学生は、遭難して死んで帰ってきたと話すおばばの目に涙があった。

<4月4日
 狩野さんの家で、朝食をいただく。相変わらずおばばは元気だ。残り飯で焦げていた。おばばは、しきりに恐縮して詫びながらすすめる。
 「もっと食べてください。こんな御飯で悪いねえ」
 北さんがマットを忘れてきたので、ゴザを借りる。雪、20センチほどあり。今日はぽかぽか温かい。ウグイスの声しきり。シャツ2枚で腕まくり、汗をかきながら雪の尾根を登る。一の沢の頭に着いたときは2時、カンカン照り。テントが2張り、登山者6人が日向ぼっこ。
 雪洞を掘る、2時間。天候悪くなりつつあり。雪洞内は快適。ゴザを敷くと家の中にいるようだ。冬の苦労とは比べものにならない。
 5時、夕食。ドイツパン1個。マーガリン、即席吸い物、ベーコン、さんま、なかなかいい献立だ。
 4月5日
 雨。雪山の雨はいやなものだ。今日は沈澱。シュラフの中にいて、10時ごろ朝飯を食う。ラーメンとパン。雪洞の屋根が1メートルほどあるので、全然雨漏りがしない。快適。ガスが濃い。昼ごろ、雲に切れ目が出て、日が射す。しかし雨はやまない。荒沢、冷沢で雪崩がしきりに出る。
 寒いので、シュラフの中にもぐりこんで話したり、歌を歌ったり、演説をしたり、誰も聞く者のがいないのに、雪の壁に面して正座し、週刊誌の記事をアナウンサーぶって朗読したり、歌の世界一周をラジオのように解説を入れてやってみたり、‥‥裸の姿はこんなときに出るのだろう。考えたら滑稽だ。退屈をまぎらわすための言動。
 夕方、晴れ間が出て、第一岩峰、第二岩峰が見える。夕食は昨日と同じ。栄養満点、それにうまい。ドイツパン1個を食べきるのがやっとだ。今回はラジュースを持ってこず、大型携帯燃料を使う。二、三日の山では便利がいい。
 4月6日
 5時起床。6時出発。雪は、上はクラスト、下は軟雪。ボコリボコリ足が入っていやだ。
 第一岩峰からアイゼンが効きはじめる。雪庇は昨日の雨でだいぶ落ちたよう。第一岩峰は、冬のときはてこずったが、今日は簡単、アンザイレンもせず。岩峰の斜面はすごいが、恐怖感は湧かない。第二岩峰のコルに来たら前のパーティが5人登攀中。第二岩峰は15分、北さんは12分で登ってしまう。頂上までたいしたことなし。頂上直下のリッジは急。9時、登頂。証拠写真を撮る。藤谷さん(先輩)と特級酒1本を賭けてある。剣岳に雲がかかっている。第一岩峰の荒沢側のスラブはアップザイレンで下る。そこから三の沢に入り、雪崩のデブリがたくさん出ている沢の中心を、どんどん走って下る。初め雪崩に不安だったが慣れると平気、しかし気がかりもあったから、飛ぶように下る。天候悪化。
 雪洞に着いたら10時半。すぐに撤収にかかる。雪が降り始めた。風も出てきた。ボコボコもぐり、つるつる滑る尾根を、何回も転び転び下る。
 昼、狩野家に帰り着いて、午後4時のバスまで休憩。おばばが昼食を炊いてくれた。昨日、ついたという餅を、おばばが囲炉裏で焼いてくれた。おばばが、登高記念帳を出してきて、
 「ここに書いてください」
と言う。そこで、「昨年9月の三の沢からの登頂、この冬と春の登頂、馬鹿の三度目東尾根、二匹の男」と、漫画も入れて書いた。おばばは、大いに喜んでくれた。この登高記念帳は、日本の近代登山の歴史的遺産だ。かのマナスル隊長の槇有恒も書いている。第一巻から見ていくと、そうそうたる人たちの名が墨痕あざやかに書かれて残されている。
 帰りのバスに乗って帰るとき、おばばは、家の前の流れで釜を洗っていた。ぼくらを見ると、笑顔で手を振ってくれた。
 朝日ジャーナルにおばばが載ったことがあった。「山魅」と書いていた。本当に山の魅力だ。今度来るときは、お土産を持ってこよう。
 松本にて、信州会館に寄って風呂に入る。「山小屋」という喫茶店でコーヒーを飲んで、ヨーデルを聴く。午後11時の夜行に乗った。>