人間の尊厳を守る

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 斎藤喜博の職場では、先生たちは歌を歌った。はじめは学校内の職員会議と教育研究会のあとで20分間ほど歌った。歌の下手な人、声の小さい人は、歌いたがらなかったけれど、斎藤喜博自身がいちばん下手だったから、いつかみんな歌うようになった。「峠の我が家」「花」「バイカル湖のほとり」「さくら」「懐かしのバージニア」「仕事の歌」「しあわせの歌」など、さらに「流浪の民」を二部合唱で歌った。歌う職場をこう記している。
 「会議のときばかりでなく、歌声はみんなが集まるとすぐに始まった。本校から分校へ、分校から本校へと、川原を歩くときも、船の上でも、みんなして歌った。夕焼け雲が天いっぱいにひろがり、ゴイサギの群れが鳴きわたっている下を、船べりにみんな腰掛けて、一日の仕事を終わったやすらぎをこめて、『みずよーみずよー』と若い人たちがきれいな声で歌っていた。堤防下の草原に座って、白い野ばらの花が、夕べのやみにつつまれてくるまで、次々と歌ったりもした。そんなとき、いつも酔ったようになり、ほのぼのとあたたかいものが、お互いの心の中に通い合うのだった。」
仕事が楽しく、やりがいがあり、職場が明るく自由であること、それがなければ歌う職場にはならない。教師たちのチームワーク、連帯感は、歌によっていっそう高まっていっただろう。
 鹿島和夫という先生がいた。
 小学校教師・鹿島和夫さんは、灰谷健次郎の友人だった。鹿島さんは、阪神大震災をくぐりぬけて、「ダックス先生 最後の授業」という著書を1996年に出した。鹿島さんは、自分の教育実践の一つの手段として「あのねちょう」を子どもたちに書かせていた。子どもたちは一冊のノートをもち、「一日のうちで、考えたことや感じたことを書く」ことを通して、先生と対話した。
 子どもたちは、家庭の状況、親の仕事によって、家族との対話が少なかった。対話が少ないと表現力も育たない。豊かな感性も育たない。人間関係も十分築けない。人間、自然、社会を見つめ、人の会話に耳を傾け、表現力をつけよう。そのために、家族と、友だちと、先生と、対話のある生活を生み出したいと鹿島先生は考えた。それが、書くことで、考える子ども、豊な会話のできる子どもを育てる「あのねちょう」だった。子どもたちの詩や文章は、学級通信に載せられて、子ども同士がつながり、親同士のつながりが生まれた。先生と親との対話が進むと、親もまた教育実践に参画するという広がりができていった。
 阪神大震災が起こり、子どもたちも被災した。鹿島先生は、ばらばらになった子どもたちを訪ね、安否を確認しに走った。クラスの子どもたち全員の無事が確かめられた。そこで驚いたのは、ほとんどの子どもたちが「あのねちょう」を書き続けていたことだった。

 「瓦礫を乗り越えて、崩壊した家屋の横をすり抜け、崩れそうな屋根を恐る恐る見上げながら訪ねていった。
『やあ、命があってよかったね』
 まず、生き残った幸せを喜び合う。そして、
『あのねちょう、書いてる?』
とたずねる。子どもたちの答えは決まっていた。
『うん、書いてるで』
 わたしは、その答えを聞くたびに感激したものだ。この災難の中でも、わたしのクラスの子どもたちは、わたしの求めている『あのねちょう』を書いてくれている。なんとかわいい子どもたちではないか。」
 「避難所の床の上で、疎開先の学校で、傾いた自宅で、こんな悲惨な状況の中で、よくも書き続けてくれたものだ。わたしはそれらの作品を集め印刷して、全員の子どもたちに送り届けた。やがて遠くの子どもたちから返事が来た。文通による交流が再開された。被災状況の報告、急変した生活や苦難の生活から学んだこと、被災した友に寄せる思い、それは学級で結ばれた強い絆を証拠づける役割を果たしていた。」

 このような学級集団づくり、教師集団づくり、教師と親の連帯、それらを進めてきた教師たちが、全国にいる。その実践には支配と服従の関係はなく、感情の刃はなく、人間の尊厳を守り、人間を育てる関係のみがあった。よく聴くこと、語り合うこと、表現すること、伝えること、それを実践している人たちだった。