古代の渡来人


 万葉集を読むと、次つぎと興味深い発見をする。大伴(おおとも)坂上郎女(さかのうえいらつめ)が新羅の国の尼の理願の死を悲しんでつくった歌がある。坂上郎女(さかのうえいらつめ)は大伴家持の叔母になる。

 <たくづのの 新羅の国ゆ 人言を よしと聞こして
 問ひさくる うからはらから なき国に 渡り来まして
 大君の しきます国に うち日さす 都しみみに
 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも
 つれもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ来まして
 しきたへの 家をも造り あらたまの 年の緒長く
 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬとふことに
 まぬがれぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと
 草枕 旅にある間に 佐保川を 朝川渡り
 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして
 くれくれと 隠りましぬれ 言はむすべ せむすべ知らに
 たもとほり ただひとりして 白たへの 衣手干さず
 嘆きつつ 我が泣く涙 有馬山 雲居たなびき
 雨に降りきや>(巻三)


 坂上郎女の深い悲しみがそくそくと伝わってくる。現代語訳すれば、


 <理願さん、あなたは新羅の国から、倭の国は良いところだといううわさを聞かれて、困ったときに相談したりする親兄弟もいないこの国に、天皇の治められるこの国に、渡ってこられて、都には家々はたくさんあるのに、あなたはどう思われたのか、私たちの住んでいるこの寂しい佐保の山辺を慕ってこられ、家を造り、長く住んでおられたものを、生きている者はいつかは死ぬものだから、頼みにしていた人がみんな旅に出ている間に、あなたは佐保川を朝のうちに渡って、春日野を後ろに見て、山の方へとぼとぼとものさびしげに隠れてしまわれましたから、何と言いどうしたらいいか分からず、うろうろして、流れる涙は衣の袖を濡らしますが、それを乾かすことなく、涙はそちらの有馬山に雲となってたなびき、雨となって降っているのではありませんか。>

 大伴坂上郎女は理願の死を嘆き悲しむ。理願は朝鮮の新羅の国からやってきて、坂上郎女の父である大伴安麿の家に寄寓し、数十年暮らしていたが、伝染病にかかってあの世へ旅立ってしまった。理願の最期を見届けたのは坂上郎女ひとりだった。坂上郎女の母・石川命婦(みょうぶ)ら、家の人たちは病の治療のために有馬温泉に行っていた。この歌は、理願の死を知らない、有馬温泉で湯治する母に送ったものであった。理願への痛切な思いの深さに感動する。
 飛鳥の時代、さらにそれ以前から奈良時代にかけて、実にたくさんの渡来人が日本にやってきた。渡来人は大陸の文化を日本にもたらした。漢字、仏教などとともに鉄の鋳造技術、須恵器などの陶器の技術、仏像彫刻の技術、建築の技術、医療の技術、馬具をつくる技術、絵を描く技術、織物をつくる技術など、さまざまな文化・技術を伝えた。
 渡来人は、百済新羅高句麗(高麗)、任那の国から、ある時は集団で、ある時は家族で、あるいは単身でやってきた。国が滅びる時には難民としてきた人もいた。夢を抱いてきた人も来た人もいただろう。それらの人は近現代の移民に通じるところもある。そうして渡来人は日本に溶け込み、日本のなかで尊敬もされて地域の人となっていった。
 山上憶良が書いた「病気になって自分をいたむ文」(巻五)がある。こんな要旨である。

 <初めて病気になってから長い年月がたった。私は七十四、手足が動かず、節々が痛く、身体はひどく重い。身体は世間の苦労で穴があき、心も世の中の苦労で縛られている。占い者にも巫女にも聞いた。神に供え物をし、祈祷もした。それなのに苦しみは増すばかり。昔はよい医者がたくさんいたという。ユフ、ヘンジャク、カタ、秦のワとカン、カツチセン、トウインゴ、チョウチュウケイ、これらの医師は手術などして治さない病気はなかった。しかしそんなよい医者を今からほしいと思っても、とてもできないことだ。もしすぐれた医者、よい薬に出会えるならば、できたら内臓を割き、いろいろな病気を探し出し、膏肓(こうこう)の奥深いところまで、病気の逃げ込んでいるのを見つけ出したいと思う。ニンチョウクンが言った。病は口から入る、飲み食いを正しくすることだ、人が病気になるのは魔物のせいではないらしい、医者のよい説や、飲食などをつつしむという戒め、知るのはたやすく行なうのは難しいのが人間の情だという教え、そういうことはよく聞き知って分かっているのだが、いかんともしがたい。ホウボクシは言っている。人間は自分の死ぬ日が分からない、だから心配しないだけだ。‥‥>

 ここに出てくる医師の名前は、もちろん漢字で書かれている。トウインゴは陶隠語、チョウチュウケイは張仲景、ニンチョウクンは任徴君と表記されている。この医者たちも渡来人なのだ。この文章を読んで、これが660年〜733年頃に生きた人のものなのかと驚く。医学の発展した現代においても共通したものがあるではないか。山上憶良は唐にも遣唐使船で行って、二年間唐で暮らしたことがあった。