この国の成り立ち

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 古代、日本列島へ、大陸から渡って来る人たちがたくさんいた。彼らは各地に渡来人のコロニーをつくり、倭の国づくりにも参入した。

 西暦六六〇年、唐と新羅の連合軍によって百済が滅んだ。倭朝廷は百済に援軍を送ったが、唐の水軍との戦いで、倭は敗れた。つづく六六八年には、高句麗も唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。百済高句麗、両国の難民の群れは海を渡り、倭に逃れ来た。

 百済からの難民の群れは対馬を経由して、瀬戸内海から難波津に上陸し、百済人コロニーをつくり、そこは百済郡になった。そこから倭の中心に向かった渡来人たちは、河内に「近つ飛鳥」のコロニーをつくり、さらに大和に「遠つ飛鳥」のコロニーをつくった。

 北陸の敦賀には、百済につづいて、唐・新羅の連合軍に敗れた高句麗からの難民が多く上陸した。高句麗朝鮮半島北部の国、高句麗の渡来人は敦賀から琵琶湖を経由し、山城(京都)に入り、木津川東部に高句麗のコロニーをつくった。その地は狛(こま)と呼ばれた。狛(こま)は高麗(こま)、高麗は高句麗。高麗寺も建てられた。そこから「遠つ飛鳥」をめざす高句麗人は、木津川を渡り、春日野を抜けていった。

 倭に向かわず、甲信越地方の厳しくも、豊かな大自然のなかに終の棲家を築こうとした渡来人集団もあった。越(こし)から入った高句麗人は、姫川や信濃川を遡って信濃に向かった。糸魚川から姫川をさかのぼった人々は、安曇野を経て諏訪にはいり、さらに甲州をめざして、甲斐にコロニーをつくった。

 信濃川河口から上った群れは千曲川の源流から佐久平を経て、甲斐や上州に根を下ろした。

 上野(こうずけ)、武蔵、甲斐は彼らの定住地になった。北方民族ツングース系の血を引く高句麗人は、馬牧、狩猟、騎馬、農耕馬、輓馬の技術を持っていた。甲斐のコロニーは巨摩(こま)郡になり、武蔵のコロニーは武蔵の高麗(こま)郡になった。

 武蔵野の北端、埼玉の日高町に高麗神社がある。

 奈良時代、染料、紫草の産出量は武蔵野が第一位だった。万葉集の防人歌や東歌には紫草で衣を染めたという歌が、いくつかある。紫草を染料とする技術も彼ら渡来人が伝えた。

 高麗人だけでなく新羅人も倭に定住し、稲作、織物、鍛冶の技術を伝えた。『続日本紀』に、駿河甲斐など東国に高麗人一千七百九十九人が移住し高麗郡を設置したとある。」

 倭の国づくりは、漢人百済人、高句麗人、新羅人の助力によって、基礎を固めた。中世、戦国時代、甲斐の武田騎馬軍団は戦場を駆け巡った。

 

 私がこの8年間書いてきた小説は、この歴史の地を舞台に、戦時、戦後を生きてきた、一教員の生きざまを描く。

 この春、教え子の尽力のおかげで「本の泉社」から出版できることになった。