「野の記憶」 <1>

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「野の記憶」 (「安曇野文芸2019・5」掲載・原作)

 

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 けたたましく繰り返す空襲警報のサイレンで目が覚めた。

 僕は防空頭巾をかぶって外に走り出る。いつもは灯火管制の闇が深かったのに、北の空は中天まで赤黒い炎に染まっている。

四天王寺さんが燃えてる!」

 同級生のモトチカ君の声だ。数人の黒い影が道に見えた。西の空の夕焼け雲の中には死んだ人がいるんやと、以前モトチカ君は僕に言った。そのとき僕は死んだ人の姿を夕焼雲の中に探したが見えなかった。燃え上がる炎、あの時よりもっと濃い血の色の天が上へ上へ広がっていく。1945年3月、大阪大空襲の始まりだった。僕の家は大阪市内の東南部、古代に百済郡と呼ばれたところにある。近くに国鉄百済駅があって百済川も流れていた。

 猶予はできない。父は家族疎開を決断し、大八車に家財を積んで、大和川を越え、20キロの道を河内野の祖父母の家まで運んだ。途中の村には米軍艦載機による機銃掃射があり、大八車を引く父の顔は必死の形相だった。

 引っ越した僕の家族は祖父母と一緒に住み、僕は河内野の国民学校二年生に転入した。家の裏には大きな仲哀天皇の御陵があった。モトチカ君とはあの晩以来もう会うことができない。

 八月十四日、「玉音放送」の前日、大阪市内へB29爆撃機百五十機による七度目の空襲があったことを知った。大阪市内はほとんどが焼けつくされた。

 十五日、家の前の池で牛ガエルが鳴き続けていた。戦争は終わった。食事はわずかな代用食だが、自由な天地のあらゆる自然物が、僕の無限の遊びと冒険の対象になった。河内野は田野が広がり、東を眺めると北から南へ山脈が連なっている。北の端に生駒山があり南の端に金剛山があった。いくつもの古墳や天皇陵が森をつくっている。

 古代、朝鮮半島からたくさんの人が海を渡ってきた。それらの人は朝鮮半島百済新羅高句麗などの国からやってきた。戦争から逃れ出たひとたち、国が滅びて難民になった人たち、進んだ文化や技術を倭に伝えようとする人たちなど、数百人、数千人の人たちが海を渡ってきた。難波津に上陸した渡来人の一群は、内陸に入ったところに居留し、そこが百済郡になった。僕の生まれたところだ。渡来人の群れはさらに奥地へ進んだ。一群は僕の目の前に広がる河内野に根を下ろした。河内野の中心になるところが「近(ちか)つ飛鳥」と呼ばれた。なおも二上山を越え大和盆地に入った一群は葛城川のほとりに居住を定めた。そこは大和の百済野と呼ばれるようになった。もっと東に移動した集団があった。それから先は深い山岳地帯になるところで、そこを終(つい)の棲家(すみか)にした。そこが「遠(とお)つ飛鳥」だった。彼らは戦乱の地から逃れ、新たな希望の地を夢見て海を渡ってきた移民だったが、元からそこに住んでいた人たちに受け入れられ、政治の世界にも仏教の世界にも寄与し、文化の創造に果たした力は大きかった。論語千字文を伝えた王仁は「近つ飛鳥」の人となり、仏師の鞍作止利(くらつくりのとり)は法隆寺釈迦三尊像を創った。渡来人は、製鉄や土器、仏像彫刻から土木建築、養蚕、政治、さまざまな大陸の先進技術・文化を伝えた。飛鳥という名は、朝鮮語の安宿であり、安住の地を意味する。(つづく)