なぜだろう?




 きれいな「クサムシ」をつかまえた。「ヘコキムシ」とも呼ぶ。「クサムシ」は「カメムシ」。「クサムシ」はずばりくさい匂いを出すから付けられた名で、「カメムシ」の名はなんともはや、お粗末なことで、今日までその虫の形が亀に似ているということを意識しないできた。あまりに当たり前の身近な名前だから、その由来を考えもしなかった。大きさが1センチほどの虫だということもある。大きな亀とが結びつかなかった。「カメムシ」の頭は三角形で、体は亀の甲羅のように見える。今度見つけた「カメムシ」は、写真のようにきれいなオレンジ色の縞模様をしている。いったいどんなデザイナーがこんな見事な模様を創ったのだろう。「カメムシ」の模様の不思議。
 カメムシは実にたくさんの種類がある。それぞれ背中の色や模様が違う。小さなハート型のマークのついた「モンツキ」というのもいるし、オレンジ色に黒の斑点の「キンカメムシ」というのもいる。きれいな緑一色のもいる。大体が果物の汁を吸って、台無しにしてしまったり、野菜について食害を及ぼしたりする。秀さんは稲が稔ってきたとき、畦の草刈りをぎりぎりまでしない。それはなぜかと聞くと、畦の草のなかにいるカメムシが、草を刈ることによって田んぼの中へ移動し、稲の汁を吸うからだと言った。多くのカメムシは「害虫」だが、アブラムシを食べる益虫もいるらしい。

 さて、「もの」には名前がある。サリバン先生が教えていた三重苦のヘレン・ケラーは言葉の存在を知らなかった。そのヘレンがスイカズラの茂る下、井戸のポンプで水を汲む。ポンプの水にヘレンが手を浸したとき、サリバン先生はヘレンの手のひらに、「WATAR」と指で書いた。その瞬間、「もの」にはすべて名前があるという大発見をヘレンはしたのだった。
 降っている雨を、どうして「あめ」と名づけたんだろう、だれがそう言ったんだろう、と疑問を抱いた小学生が、東北の方言でその疑問を詩に書いた。それを生活綴り方教育の研究実践家だった故国分一太郎氏が紹介したのを読んだのはもう半世紀以上も前のことだ。当時教壇に立ったばかりのぼくは生活綴り方に教育の原点を見いだした。
 子どもは、目に見る世界のなにかにつけて「不思議だな、なぜだろう」、と思う。「当たり前のこと」として考えることもない大人の思考とは異なる。「なぜだろう」、この発想が発見を生み、科学の元になる。「不思議だな、なぜだろう」っ子は、大歓迎だ。

 確か斉藤茂吉だったと思うが、こんなことを書いていた。「こおろぎ」は「こうろこうろ」と鳴く、「カリ(がん・雁)」は空を飛びながら「カリカリ」と鳴く、だからその名前ができたのだろう、と。なるほど幼児語では「犬」は、「わんわん」「猫」は「にゃんにゃん」だからね。ところが「こおろぎ」は、万葉の時代は秋に鳴く虫の総称だった。「きりぎりす」を「こおろぎ」と呼んでいた。
 国語学者の前田勇は講義で、「つくえ(机)」は「つき(坏)」を「すえる」から生まれたと言った。「さかずき(杯)」は、「酒」の「つき」から来ている。なるほどそれは分かる。では容器を「つき」と名づけたのはどうして? 「酒」はなぜ「さけ」? 分からないことだらけだ。
 それはこういうことだと理論的に説明され、真理だと思われていることも、実は仮説だと言われる。

 分からないことだらけだ。現代社会も、世界の国々で起こっていることも、なぜそうなる?