地震のとき生物たちは?<高村薫の小説「土の記」>


高村薫の小説「土の記」を読んだ。舞台は奈良県の大宇陀、描写の緻密で豊かな表現に感嘆する。
下巻のなかに、東日本大震災のときのカエルの話が出てくる。次のような描写だ。

 <昨夜は、両方の耳の外耳道にシュレーゲルアオガエルが潜り込んできた。ヒロロロロ、ヒロロロロ。のどの鳴嚢をつややかな緑色の頭と同じ大きさほどにふくらませて鳴くその声は、乾いた木琴を叩きならすかのように響きながらヒロロロロ、ヒロロロロ、闇のなかへしたたりおちる。温かい小ぬか雨の湿り気に浸された夜陰の下、田んぼの畦のふちか、用水路のかたわらの土のなかでメスを呼ぶオスと、高台の古家で眠る男の外耳道に張り付いているオスが、一晩じゅう、ヒロロロロ、ヒロロロロと鳴き交わしていたようだ。
 否、あれはただの縄張り争いではなかった。五十日ほど前、三陸沿岸で無数のカエルたちが、冬眠から目覚める間もなく津波にさらわれた。カエルだけではない。ミミズ、ケラ、ザリガニ、ドジョウ、ヌカエビ、スジエビ、ミジンコ、ゲンゴロウタガメもいただろう。そうして海水にのまれた彼らは、己が生体の生理現象によって、細胞の半透膜を通して体液をしみださせながら死に、以来、かろうじて惨事を生き延びたカエルたちが、ヒロロロロ、ヒロロロロと次つぎに鳴き交わして国中の仲間たちに、大地の異変を知らせ続けている。その知らせが、昨夜はついに八百キロ離れた奈良盆地の大宇多の仲間の耳にとどいたのではないだろうか。逃げろ、逃げろ、一目散に逃げろ、と。思うに、彼らの声はここからさらに紀伊半島へ、大阪平野へと伝播して、関門海峡までたどりつくのだろう。‥‥‥おい、みんな、昨夜のヒロロロロ、ヒロロロロは聞いたか。鳴き交わすその声のなかに、大地の異変を知らせる遠方からの伝言はあったか。否、地震の衝撃波は、ほんとうは発生と同時に速やかに列島じゅうに伝播し、大宇陀にも数分のうちに届いていたのではないだろうか。地震の二日後に半坂の川をのぞきにいったとき、二月には泥の穴からヒゲをのぞかせていた花子(オオサンショウウオ)がいなくなっていたのは、いち早く異変を察知して逃げたということではないか。おい、みんな、どうなのだ?
 ミズスマシが音もなくよぎる水面の下でアメリカザリガニが一匹、のそりとヒゲを揺らす。その一瞬、水のなかのオタマジャクシたちが墨を散らしたように四方へ散り、小さな水しぶきが上がったが、伊佐夫はそれに気づかなかった。>

 この文章に出会った時、頭によぎるものがあった。地震が起きた時、人間は、人間の情報のみに右往左往し、ひそかに生きている大小無数の生物たちが、そのときどうしていたか、考えることもない。彼らは彼らの伝達方法を駆使して、大地の異常を伝えているかもしれない。
 ぼくが奈良の金剛山の麓に住んでいたとき、庭の土の中にかすかな振動があったらしく、とつぜん土のなかから大ミミズが大急ぎで飛びだしてきたのを見たことがあった。ミミズがそんなスピードで動くとは考えられないスピードだった。その振動はモグラが土を掘る振動だったのだと思う。モグラはミミズを捕食する。それから何度かぼくが土に振動を与えてみると、ミミズが動きだしたことがあった。大地を独占している傲慢な人間は、鳥や獣や虫たち、小さな生き物の世界を余りにも知らない。