『夜と霧』(2)――希望
明日をも知れぬアウシュヴィッツの囚人のなかに、夕映えの山を見て美しいと感動する人がいた。
生きるか死ぬかという世界にあっても、ある人にはそのような感受性の働きがあったと、フランクルは書いた。
さらに注目すべきは、「希望」であった。
一片の希望も持てそうにない状況であっても、人は希望を抱く。
その希望が生きる力の源泉となる。
実現するかどうか分からないにしても、いつか実現することを願うことで生きる力を呼び起こす。
フランクルはこんな体験をした。
ある囚人が夢を見た。
夢の中で、戦争はいつ終わるのかとたずねた。
すると、3ヵ月後の5月30日に終わると告げられた。
囚人はそのことをそっとフランクルの耳に伝えた。
夢は囚人の生きる力になった。
ところが、5月30日が近づいてきても、状況は解放に向かわない。
5月29日、囚人は高熱を発し、意識を失い、31日に死んだ。
フランクルは、この囚人の希望が失望に変わったとき、
彼の身体の抵抗力が急激に衰弱し、
潜伏していた発疹チフス菌が動きだして死んでいったと説明している。
人間の心の状態、失望や落胆が生きる力に大きな作用を及ぼした結果だと考える。
また1944年のクリスマスの後、一週間ほどの間に大量の死者が出た。
それはクリスマスには解放されるだろうと、
心に抱いていた囚人たちの希望が打ち砕かれたため、
落胆が、人々の抵抗力を奪い、
病魔に侵されていったのだと指摘している。
状況がどうであれ、未来に目的・目標を持つと、未来を信じることができる。
未来が自分を待っている、妻が待っている、子どもが待っている、
その目標が生きる力を生み出す。
自分の未来を信じないものは、心が崩壊し、身体が壊れて滅亡する。
二人の囚人が自殺を企てた。
二人は、もはや人生から何ものも期待できない、というのだった。
フランクルは、二人に話しかける。
人生があなたがたに期待しているものがある、
あなたがたの未来で、あなたがたを待っているものがある、
それはなんですか。
囚人の一人は、愛する子どもが外国で彼を待っていることを、
もう一人は、科学の本の執筆の完結が待っていることを、
いずれも自分の人生にとってかけがえのないものであることを意識に浮かび上がらせた。
生き続けることによって、それらかけがえのないものに対する責任を果たすことができる、
生きることを放棄することはできない、
彼らは生きた。
餓死しそうになった一人の囚人が、じゃがいもを盗もうと倉庫に侵入した。
侵入者があったことに気づいた収容所当局は、犯人を出すように囚人代表に命令してきた。
2500人の仲間は、犯人を絞首台に引き渡すよりも、
連帯責任としての罰、一日の絶食を選ぶ。
絶食した日の夕方、
彼らは不機嫌な気分で掘立小屋に横たわっていた。
口を開くものはなく、開けばいらいらした言葉ばかりが出た。
そこへもってきて停電が起こった。
不機嫌は最高潮に達する。
そのとき、フランクルのブロックの囚人代表は、みんなを集中させるために話を始めた。
その話は、最近病死したり自殺したりした囚人についてであった。
死ぬことの真の理由はどこにあるのか、それは自己放棄ではないか。
代表は、どうしたら自己崩壊による犠牲者を防ぐことができるかと、
フランクルに話すように依頼する。
寒さに震え、飢え、ぐったりしていたフランクルは、この要請に応えて話し出した。
囚人たちの様子は、せっぱつまっていた。
フランクルは、六度目の冬を迎える自分たちの状況は、
このヨーロッパの中で考えられるかぎりの最もすさまじいものではないだろう、と話し、
一人一人にとって真にかけがえのないもので、失ってしまったものは何だろうと問いかけた。
生きている限り、失ったものはわずかである。
だから、生きているものは、希望をもたなければならない。
フランクルは、未来について、希望について話した。
自分たちが生き延びる可能性は、きわめて少ない。
生き延びる人は、約5パーセントだろう。
だが、落胆し、希望を捨てる必要はない。
なぜなら、いかなる人間も未来を知らないし、
いかなる人間も次の瞬間に何が起きるか知らない。
われわれが収容所で何らかの大きなチャンスに恵まれないとも限らない。
それは予測できないことだ。
フランクルは、現在の苦悩について、予測しがたい未来について、また過去について、
そして、闇の中に射し込んでくるすべての光と喜びについて語った。
「汝の体験せしことをこの世の如何なる力も奪いえず」
われわれの体験したこと、為したこと、悩んだこと、それらは永久に現在のなかに組み込まれている。
フランクルは最後に多様な可能性について話す。
人間の命は、常にいなかる状況においても意味を持つ。
この存在の無限の意味は、苦悩と死をも含む。
私たちの状態の重大さを直視し、しかしあきらめてはならない。
見込みのない闘いであっても、闘いの意味や尊厳を少しも傷つけるものではない。
われわれ犠牲者の犠牲は、全く意味のないものだろうか、
そうではないはずだ。
最後のとき、私たちを見ている者、妻や友や神を失望させないように、
誇らしげに苦しみ死んでいこう。
停電が終わり、電気がついた。
囚人たちのなかに、眼に涙をためて感謝の言葉を言おうと近寄ってくる人がいた。
収容所の極限状態の中でも、
このような高い精神性の人間らしい営みがあった。
はかりしれない絶望の淵でも、
希望を語る人がおり、
共感する人がおり、
感動に涙する人がいた。