極限の中で

   


    『夜と霧』(1)――人間とは何か 


史上最大の地獄を体験した報告と言われる、
ドイツ強制収容所の体験記録『夜と霧』(V.E.フランクル)。
アウシュヴィッツに収容された心理学者であったフランクルは、
「この世の地獄」とか、「すさまじい悲惨」とかという形容では事実は何も伝わらない状況を、
学者の眼で、心の内と外とを記録して、世界に伝えた。
『夜と霧』という名前の由来は、非ドイツ国民で占領軍に対する犯罪容疑者は、
夜間秘密裏に捕縛して強制収容所に送り、政治犯容疑者は家族ぐるみ一夜にして消したという、
ヒトラーの命令の呼称であった。


収容所では、働けるものは強制労働に、
働けないものはガス室に送られて命を絶たれた。
ボロをまとい破れた靴を履き、わずなかパンと、水のようなスープで、命をつなぎながら、
酷寒の冬、生き延びようとする極限の人間の姿。


この記録もまた、「人間とは」の必須教育のなかで、必読書となる。


記録の中に、こんな場面が出てくる。
ガス室送りをまぬかれ、強制労働の班に組み込まれたフランクルは、長い使役の日々の後、
アウシュヴィッツからバイエルンに、他の囚人たちとともに鉄道輸送された。


途中、列車の鉄格子の覗き窓から、
頂上が夕焼けに輝いているザルツブルグの山々が見えた。
飢え、疲れ、寒さに震える囚人たちは、そのときどんな反応をしたか。
そして又、バイエルンの森の中で苦役していて、高い樹々の幹の間を沈んでいく太陽の光を見たとき、
囚人たちはどんなことを感じたか。


「囚人輸送車の鉄格子の覗き窓から、
ちょうど頂が夕焼けに輝いているザルツブルグの山々を仰いでいるわれわれの
うっとりと輝いている顔を誰かが見たとしたら、
その人はそれが、いわばすでにその生涯を片づけられてしまっている人間の顔とは、
決して信じ得なかったであろう。
彼等は長い間、自然の美しさを見ることから引き離されていたのである。
そしてまた収容所においても、労働の最中に一人二人の人間が、
自分の傍で苦役に服している仲間に、
ちょうど彼の眼に映った素晴らしい光景に注意させることもあった。
たとえばバイエルンの森の中で、高い樹々の幹の間を、
まるでデューラーの有名な水彩画のように、
ちょうど沈み行く太陽の光が射し込んでくる場合の如きである。
あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、
スープさじを手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていたとき、
一人の仲間が飛び込んできて、
極度の疲労や寒さにも拘わらず
日没の光景を見逃させまいと、
急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。
そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え上がる雲を眺め、
また幻想的な形と青銅色から真紅の色までの
この世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。
そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と
どろだらけの点呼場があり、
その水溜りはまだ燃える空が映っていた。
感動の沈黙が数分の後に、誰かが他の人に
『世界ってどうしてこう綺麗なんだろう』
と尋ねる声が聞こえた。」


酷使と飢餓と寒さ、そして襲いくる暴力のなかでも、このような心の世界があった。
『世界ってどうしてこう綺麗なんだろう』と感じる心を持っていた。
フランクルは、このような内面化の傾向、芸術や自然に関するきわめて強烈な体験の強さが、
彼らの置かれていたすさまじい現実を忘れさせたと述べている。


過去の世界へ、心の中で戻っていく内面化もあった。
過去の体験に思いを馳せる、それは日常的ななにげない、ささやかな出来事への追憶だった。


「市電に乗って家に向かう、入り口の扉を開ける、電話が鳴る、
受話器を上げる、家の電灯のスイッチを入れる
――囚人がその想い出の中でいわば撫で回して慈しむものは、
こんな一見笑うべきささやかなことであった。
そしてその悩ましい思い出に感動して彼等は涙を流すこともあったのである。」


心の世界で、フランクルは愛する者との対話を繰り返す。


「再び私は愛する者との対話を始め、
あるいはもう何千回目ではあるが、嘆きと訴えを天に送り始めるのである。
そしてもう何千回目に私は答を得ようと苦しむのである。
すなわちこの私の苦悩、
この犠牲の意味、
このゆっくりとくる死の意味を得ようと闘うのである。
私の前にある死の、慰めなきことに対する最後の抵抗において、
私は私の精神が周囲の灰色を貫きとおすのを感じる。
そしてこの最後の抵抗において、いかに精神がこの全く慰めなき意味なき世界をのり越えるか、
また究極の意味での究極の問いに対して、
勝利の肯定の声がどこからとなく歓呼して近づいてくるかを感じるのであった。」
「明け行くバイエルンの朝の絶望的な灰色の真っ只中に、
地平線に芝居の書割りのように立っている遠い農家のあかりが一つ
ぽっとついたのであった‥‥」


こうしてフランクルは森の中で何時間も凍った地面を掘り続け、
愛する者と対話する。
すでに殺されてしまっていたのだが、妻との対話、
愛する妻は今そこにいると感じる。
手を伸ばしさえすれば彼女に触れることができると。
そう強く感じながら地面を掘り続けた。
絶望の中で歓呼の声を聞く、死を感じる弱りきった人間のなかに、こんな力があった。


強制収容所で、ほとんどの囚人は生きるためだけ、
特に食べることに注意が集中して原始性におちいっていくが、
まれに著しい内面化の傾向のある人がいたのだった。
精神性の高い生活をしていた感受性の強い人のなかには、
収容所の外的状況がひどく苦痛であっても、
恐ろしい周囲の世界から、精神の自由と内的な豊かさへと逃れることができた。
心の中に、そういう道が開かれていたから、
繊細な性質の人がしばしば頑丈な身体の人々よりも、よく耐えることができたのだという。
パラドックスである。

人間の生きる力は、実に底知れぬものがある。