絶望しない精神 <3>

 「遂にある日、その時は来た」、囚われのユダヤ人たちの解放の日である。自由になった。束縛、暴力、飢餓、死から解放される。フランクルの、その日の記録。
 
 「人はがつがつと食べ始めたのである。人びとは何時間も何日も夜遅くまでも食べるのであった。
 ある解放された囚人が、収容所の近くのある親切な百姓に招待されたときなど、彼は食べて食べて、そしてそれからコーヒーを飲み‥‥そしてやっと舌がとけてくるのであった。今や彼は何時間も語り始めるのであった。
 かくして彼の上に積み重ねられてきた年来の圧迫が融けてくるのであり、そうなると彼の語り方たるや、あたかも一種の心理的強迫であるかのような印象を与えるのであった。すなわちそれほど彼らの話は、語らざるを得ないといった、とどめることのできない衝動であったのである。」
 身体の飢えと精神の飢えにさいなまれてきた人たちの、自己を取り戻す渇仰の爆発であろうか。
 飢えが充たされると、次に起こったのが抑制の障壁を突破する感情のみなぎりであった。「夜と霧」のなかで、解放そのものともいうべき光を放つ文章だと、ぼくは胸のふるえを感じて読んだところがある。


 「解放後数日たって、ある日、
 広い野原を越え、花咲く平野を通って、数キロも遠く、
 収容所のまわりの町の方へ歩いて行く、
 ヒバリがあがり、高いところでただよい、
 空いっぱい響くその賛歌と歓呼が聞こえる。
 周囲には一人の人間も見えない。
 まわりには広い天と地と、ヒバリの歓呼と、
自由な空間があるだけである。
 そのとき、この自由なひろがりに進んで行くのをやめ、立ち止まり、
 そして天のきわみを見上げる‥‥
そして、ひざまづく。
 その瞬間、世界から遠く離れ、
心の中にただ一つの言葉だけをくりかえし聞くのである。
 『この狭きより、われは主を呼び、主はわれに広き自由の中に答え給う。』
 どんなに長くひざまづいていたことだろうか。
 どんなにたびたびその言葉を繰り返していたことだろうか。
 ‥‥‥もうそれは記憶していない。
 しかし、その日、その瞬間に、新しい生活が始まったのを知っている。
 そして一歩一歩と、この新しい生活へとふみだしていく、
 再び人間になっていくのである。」


 河原理子は、こんなことを書いている。
 「フランクルは、強制収容所に入れられた囚人は、三つの心理的過程をたどると語っている。
 第一は、収容される段階のショック。興奮したり、ひどく不快になったりする。しかし数日または数週間たつと、第二段階に進み、深刻な無感動に支配される。その日一日を生きのびることばかりに関心は集中し、一方でいらだちやすくなる。囚人たちは、ある劣等感に悩んでいた。彼らは、前は『誰か』であったのに、今は『何ものでもない』無名のものとして扱われたからだ。
 第三の段階は、解放の段階だ。喜ぶことを忘れてしまった囚人たちは、それを学び直さなければならなかった‥‥。」
 収容所から解放された人たちは市民生活に復帰した。しかし、そこで新たな問題が生じた。「囚人たち」がどのような煉獄をくぐりぬけてきたかを理解しない、その本質を知らない人たちの言葉が、不満・失望を生み、「いったい自分は何のために耐えてきたのか」と、収容所の底なしの苦悩が解放後も底のない苦悩として続いている疑問に襲われたことである。また、収容所で唯一の心のより所にしていた、愛する人がもはや存在しないということであった。フランクルはこんな風に描写している。
 「彼は市電に乗り、彼が数年来心の中で見たあの家のところで降り‥‥彼が夢の中であこがれたのとまったく同じように‥‥呼び鈴を押し‥‥だが、ドアを開けるべき人間はドアを開けないのである‥‥その人はもはや決して彼のためにドアを開けてくれないであろう‥‥。」

 河原理子は、「長く平和で豊かだったはずの日本で、なぜこんなにフランクルの本が読まれるのだろう」と、フランクルの生涯と彼の思想を訪ね歩くなかで、現代日本の精神の飢餓を見つめた。1970年代、フランクルアメリカの講演で、自殺を試みた大学生の大半が「人生が無意味に思えた」ことを理由にあげたことについて話した。
 「こうしたことが、豊かな福祉国家の真っただ中で起きている。私たちは夢を見続けてきたのかもしれない。社会経済状態さえよくなれば、人は幸せになるだろうという夢。しかし生き残るための闘いが収まるにつれて、一つの問いが浮かび上がってきた。『何のために生き残ろうとしているのか?』という問いが。」
 河原理子が、自分はどう生きるのか、フランクルのメッセージから腹に収めたのは次の二つであると。
・問うのではなく、こたえる
・引き受ける
 フランクルが言うのは、
「人は、人生がその人に問いかけてくる問いに応答しようとし、それに応答することによって、人生が差し出してくれる意味を満たしているのではないだろうか」
 愛する人に向かって生きて、初めて人は人間として生きられる。人間存在の自己超越性を人が生き抜く、そのかぎりにおいて、人は本当の意味で人になり、本当の自分になる。そして人間は苦悩を引き受けることができる。あえて苦悩せよ。人間の本質は「苦悩する人」なのだ。
 これがフランクルの応答である。
 河原は、この「苦悩」とは、自分では変えることのできない運命的なものに対する苦悩を指すという。