光太郎の詩「鈍牛の言葉」に託し


      光太郎の詩「鈍牛の言葉」に託し


高村光太郎は、敗戦四年後、66歳のときに、
詩「鈍牛の言葉」を書いています。
1945年の春、東京のアトリエが戦災で消失、
光太郎は岩手県花巻の宮沢賢治の弟、清六方に疎開します。
8月15日、戦争が終わると、
光太郎は稗貫郡太田村に鉱山小屋を移築して、
たった一人、農耕自炊生活に入りました。
自らを「暗愚」と称した流謫の生活です。
詩「鈍牛の言葉」は、そのときに作られた詩です。
光太郎は、戦時中、
日本の戦争の義を信じ、加担協力する詩を書きました。
それは当時の国民に共通する精神性でもありました。
敗戦後、光太郎の眼からうつばりはとれ、
自分の姿をありありと見つめます。
詩「鈍牛の言葉」、
その一節にこうあります。


  おれはのろのろのろいから
  てをかへすやうにてきぱきと、
  眼に立つやうな華やかな飛び上がった
  さういふ切りかへは出来ないが、
  おれの思索の向かふところ
  東西南北あけっぱなしだ。
  ‥‥
  今こそ自己の責任に於いて考へるのみだ。
  随分高い代価だったが、
  今は一切を失って一切を得た。
  裸で孤独で栄養不良で年とったが、
  おれは今までになく心ゆたかで、
  おれと同じ下積みの連中と同格で、
  痩せさらばへても二本の角がまだあるし、
  余命いくばくもないのがおれを緊張させる。
  おれの一刻は一年にあたり、
  時間の密度はプラチナだ。
  おれはもともと楽天家だから
  どんな時にもめそめそしない。
  いま民族は一つの条件の下にあるから
  勝手な歩みは許されないのは当り前だ。
  思索と批評と反省とは
  天上天下誰がはばまう。
  日本産のおれは日本産の声を出す。
  それが世界共通の声なのだ。
  おれはのろまな牛こだが、
  じりじりまっすぐやるばかりだ。
     (1949・11・2)


戦時中は、国家という大集団の意志にたばねられ、
それを自らの生き方としなければなりませんでした。
戦後の日本はあの頃と比べれば、
自己の意志で生きることのできる自由な時代ではありますが、
それにもかかわらず、
何の拘束もない、真に自由といえる人生なのかと問えば、
はたしてどうか。
いまだ新たな囲いのなかに人はいます。


光太郎のこの詩の年齢を越えてしまったぼくの、
今立っているところは、
全く茫漠として、道は見えませんが、
生きていくべき方向に逆らわず、
進むだけです。
ぼくはもっとのろのろとした鈍牛。
それでも、歩けば歩いただけ、
何かが現れることは確かなことです。
でも、現れるまでは時間がかかります。
今それがちらほら現れてきたところで、
次の旅に出ることになりました。


再び一から人と出会い、
たかがしれてる自己のやれることを、
見つけていくだけのことで‥‥。
こんどは終の棲家になりそうですが、
人生というものはどう展開していくか、
まだまだ分かりません。