ワイマールの歴史とナチス、そして日本

今日、8月30日、安保法案を許さない全国行動だった。
この安曇野の田舎の駅前でも集会があった。
100人ほどが集まって、意見を発表しあった。

 ワイマールはドイツの中央にある。バッハ、リスト、ゲーテ、シラーなどが生きたドイツの精神文化の中心であった。その地は長く続いたワイマール公国の主都であったが、1918年、第一次世界大戦でドイツは敗北し、ワイマール公国は無血平和裡に帝政から共和国に移行した。そして翌年、世界で最も民主主義的な憲法の典型とされた「ワイマール憲法」を制定する。
 文学、音楽、哲学、自然科学、技術などで「ワイマール文化」を花開かせたワイマール共和国だったが、やがて帝政派、右翼勢力が台頭し、ついにナチスによって息の根を止められた。ヒトラーは、世界大恐慌の中、中間層の支持を得、財界と手を握って、首相となる。1934年、ヒトラーは総統になり独裁権を掌握して第二次世界大戦に突入していった。
 ワイマールの小山には、あろうことか暴虐非道のナチによるブーヘンヴァルト強制収容所がつくられた。そこからは毎日のように人を焼く煙が立ちのぼった。ワイマールは、ヒューマニズムの舞台からファシズムの舞台となったのだった。
 ドイツ文学者、小塩節が「旅人の夜の歌 ゲーテとワイマル」(岩波書店)において、ワイマールの政治にたずさわった文学者ゲーテ(1749〜1832)の詩「旅人の夜の歌」を核に、随想風にワイマルの歴史とゲーテの人生を考察している。
 「この静かな町で、ヒトラーの政権奪取よりはるかに前の1920年代半ばからナチ党がこの町に根を下ろし、市内を行進する褐色軍団の姿が圧倒的に強くなっていったのはなぜだろう。ベルリンその他の町では、ナチと社会民主党共産党のあいだの流血の衝突が長く続いた。静かでおとなしいワイマルではそのようなことはなかった。だからワイマル共和国の基礎である新しい憲法を制定する国民議会は、やむを得ず静かなワイマルを会場に選んだのだった。ドイツの首都はベルリンだった。‥‥文化都市ワイマルをことのほか好んだヒトラーは、『余はワイマルを愛してる。余にはワイマルが必要である。』としばしば語っている。」
 ワイマールの南には東西100キロに及ぶチューリンゲンの森があり、その地方は「ドイツの緑の心臓」と呼ばれた。青年ゲーテが「旅人の夜の歌」をうたったのはそのワイマルの山辺だった。      
 ゲーテやカントのいた法治国ドイツが、どうして凶悪極まりないナチの権力国家へと変転したのか。ヒューマニズムを育てたワイマールが、どうしてナチスによって強制収容所がつくられ、日夜殺戮が行なわれるようになったのか。ドイツ人のその変化について小塩は、こう推察する。
「1806年のナポレオンによるドイツ占領とその後の解放戦争時のナショナリズムの爆発である。ゲーテが嫌悪したのは、ドイツ人全体がこの爆発に雪崩を打って一気に走ったことだった。ドイツ人特有のこの雪崩現象とその徹底性。いわゆる国民性は、時代によって変わりうるものだが、ドイツ人のこの国民性はなかなか変わるものではない。次いで、19世紀後半にはビスマルクの率いる鉄と血のドイツ帝国、このときにドイツ人のナショナリズムは再び爆発した。そして20世紀、第一次世界大戦の敗戦後、ヴェルサイユ条約の課す過酷な賠償に対して激発したナショナリズム。」
 これがナチズムを招いたという。

       峰々に
       憩いあり
       梢を渡る
       そよ風の
       跡もさだかには見えず   
       小鳥は森に黙(もだ)しぬ
       待て しばし
       汝もまた 憩わん
             (小塩節訳) 

 「多くの人の生命が凶悪な信念にとりつかれた同じ人間によって、組織的意図的に虐殺され、その血が大地から叫んでいるのを聴く思いがする。それでもなおこの詩の言葉はもちこたえていけるのか。文学に、詩に、存在する意味はあるのか。詩の言葉は、信、望、愛の光をわずかながらも映しながら生き続けていけるのだろうか。」
 小塩が問うている。
 このような歴史があったから、第二次世界大戦の敗戦後、その歴史をドイツ国民はしっかりと踏まえようとした。歴史を直視し厳しく歴史に向かい合う政治や教育が行なわれた。
 日本の場合、戦後70年の核にあるのは憲法である。
 ぼくは、公立学校の教職にあったとき、日本教職員組合の一員だった。日教組が戦後、組織の精神の核としたのは「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンだった。このスローガンは、戦時中教え子を積極的に戦地へ送って死に至らしめた自己を責め、罪を悔い、苦しみぬいた教師たちの中から生まれた。「日教組の不滅のスローガン」と呼ばれるものだった。