犬養道子「人間の大地」の叫び

 

 

    犬養道子の「人間の大地」(中公文庫 1992 )は、何度読んでも心が泣く。

    その112ページ

    「ほぼ七万人収容のカオイダン難民キャンプの病者テント内に、一人の子がいた。親は死んだか殺されたか、はぐれたか、一語も口にせず空を見つめたままの子。衰弱した体は菌にとって絶好の獲物であったから、その子は病気をいくつも持っていた。国際赤十字の医師団は、打てるだけの手を打ってから、さじを投げた。その子は薬も、流動食も、てんで受け付けなかった。幼心に「これ以上生きて何になる」の絶望を深く感じていたのだろう。

    ピーターと呼ばれる、アメリカからのボランティアの青年が働いていた。医者がさじを投げたその時から、ピーターはその子を抱いて座った。特別の許可を得て、彼は夜も抱き続けた。その子の頬を撫で、接吻し、耳もとで子守唄を歌い、二日二晩、ピーターは用に立つ間も惜しみ、全身を蚊に刺されても動かず、子を抱き続けた。

    三日目に、反応が出た。

    ピーターの眼をじっと見て、その子が笑った。

    「自分を愛してくれる人がいた。自分を大事に思ってくれる人がいた。自分は誰にとってもどうでもいい存在ではなかった‥‥」

    この意識と認識が、無表情の石のごとくに閉ざされていた子の顔と心を開かせた。

    ピーターは泣いた。よろこびと感謝のあまり、泣きつつ勇気づけられて、食べ物と薬を子の口に持って行った。

    子は食べた。絶望が希望にとってかわられたとき、子は食べた。薬も飲んだ。

    そして、その子は生きたのである。

    回復が確実なものとなったある朝、私はセクション主任と一緒にその子を見に行った。

    「愛は食にまさる、愛は薬にまさる」

    セクション主任は、子をなでつつ深い声で言った。

    「愛こそは最上の薬なのだ、食なのだ。人々の求めるものはそれなのだ。」

    朝まだき、とうに40度に暑気が達し,山の彼方からは銃声が聞こえ、土ぼこりがもうもうと吹きまくっていたカオダイン、私は生涯忘れることはないだろう。

 何かを与えに、助けに、私は行ったのだろうか。否。

 与えられ、助けられたのは、私であった。

 究極的に、何がいちばん大切なのか。難民の子らは、人々は、ピーターのような若者は、日ごと私に教えてくれたのだ。だからこそ、ゼロのゼロであったインドシナ難民に対し、カネだけ出せばそれでよいとした日本国の日本人を、私は悲哀の限りをもって眺めたのである。とどのつまり、人間とは縁(えにし)の動物なのである。縁(えにし)なくして人間は人間になりえない。

    「泣くものとともに泣き、喜ぶものとともに喜ぶ」他者を、相手を、人間は必要とする。

    人間の実存と生そのものは、断絶・分裂・自己閉鎖・孤立にはなく、具体化してゆくところにのみ、人間の生の開花と成長が可能となる。 。

    互いにかかわりあい、縁(えにし)を深めあわぬ限り、宇宙を代表することも地の表を新しくすることもできない。