「イシ」の物語

 

 

    1900年、カリフォルニアにやってきた人類学者のクローバーは、無数のネイティブアメリカンの先住民が殺され、部族が滅されている現実に出会った。危機を感じたクローバーは、大量殺戮が完了してしまう前に、原住民の情報を少しでも多く蒐集しなければならないと思い、情報を集めた。そこで出会ったのが、ヤヒ族の最後の生き残り、イシだった。

    イシは、皆殺しにされた部族の、たった一人の生き残りであり、家族の惨死を悲しみつつ、たった一人で何年間も身を隠していた。彼は足跡を一つも残さなかった。山の中に、まだ「未開人」「野生のインディアン」が生き残っていることを悟られないように、足跡を掃いて消していた。

    イシは、孤独で悲惨な暮らしに耐えきれなくなって、死を覚悟して侵略者の前に現れた。そこで出会ったのは死ではなく、クローバーであり、彼の思いやりと友情だった。

    イシは、近代都市の中で生涯を送ることになった。イシは、石器時代から20世紀までの巨大な溝をたった一歩でまたいでしまったのだった。クローバーは見た。イシの一歩は品位あるもので、人間としての尊厳を少しも失わぬものであった。「文明」と「未開」の間にある溝は、実は単に無知と偏見と恐怖心の溝に過ぎなかった。

 「イシ」という名は、彼のヤヒ族の、「人間」という言葉であった。イシはクローバーの良き友人となった。だが、イシは、わずか5年後に、結核で死亡した。ヨーロッパからアメリカ大陸に移住してきた人たちは、多くの伝染病を持ち込んでいたのだった。

 

    「イシ」の記録物語は、1991年、岩波書店から出版されている。