1983年、中央公論社から出版された「人間の大地」。著者は犬飼道子。
この書は今もなお、いや今だからこそいっそう、読まれるべき書だと思う。犬飼道子の世界的な視野と歴史的な考察、そして世界での活動体験にもとづく思索、深い精神は、読めば読むほど、心に迫ってくる。世紀を超える必読書だと思う。
そのなかにこんな一節がある。
難民受け入れは「やっかいものを背負い込むこと」ではない。むしろ人材という富をわけてもらうことなのだ。各国の歴史がそれを物語る。17世紀に大量難民をフランスからスイスが入れていなかったら、スイスの時計産業はけっして生じなかった。難民が時計製造を「食べる道」にしたからである。
アイルランド難民が19世紀後半にアメリカになだれこんでいなかったら、ケネディ大統領は出なかった。難民を全世界から受け入れたからこそ、アメリカはアメリカになった。1979年、カンボジア惨劇のとき、ド・ゴール派議員がフランス議会で言った。
「フランスが難民受け入れの伝統を持っていなかったら、近代画壇ひとつとっても、今のフランスは存在しなかったはずだ。」
スイスが1960年代に受け入れたチベット難民は、東洋思想研究室設立をうながし、スイス各大学に貴重な寄与をもたらしている。
もし、1933年以降、「SOS 学究を救え」の運動が全ヨーロッパからトルコまで、アメリカからカナダまで広まって、「難民の中の学者」に大学を開くことをしなかったら、物理学のブランクもアインシュタインも、アイシュビッツで死ぬか難民行の間に倒れたかしただろう。
1933年、34年、650人のドイツ頭脳界のトップが難民になった。
1930年代の難民学者たちのなかには、日本軍によって大学を破壊され、職を失った中国人学者もいた。
「SOS 学究を救え」の運動によって、ナチス下のオーストリアから四百人、ファシズムのイタリアから数百人、中国から数百人の学究の徒を、大学が受け入れた。
フランスのソルボンヌ大学、イギリスのオックスフォードとケンブリッジ大学、スコットランド大学、アメリカのハーヴァード大学、コロンビア大学、
それら世界で冠たる大学が、大喜びで彼らを迎えた。各国の財団が費用を出し、難民学者・学生が独身なら180ポンド、夫婦・子どもなら250ポンド、それぞれ難民はもらって、自分の専門に適した大学に散っていった。いま世界の最高等学問研究所のひとつ、ブリジストンの高等研究所は、難民学者学生を迎えるべく特につくられたものであった。
ロンドン大学もダブリン大学も、アンカラ大学も、新しい学部を作り、そのスタッフは難民学究者であった。
犬飼道子は訴える。
「1954年、第一次ヴェトナム・ボートピープル。フランスへ、フランスへ、見よ、今日、フランスが彼らによって得た人的富を。
ちがうものの見方、発想法、異質の新しい価値、それらかけがえのない富をこそ、難民はもたらす。それだけではない。ナンセンが確信したように、基本的人権・生存権、いっさいゼロのどん底を通る難民たちは、我々にもう一度、『人間とは、生存とは、法とは、国際法とは、政治とは、道義とは、なんであるか』を、無言にかつ高らかに、身をもって語ってくれる貴い預言者なのだ。
受け入れよ、謙虚に。」
この犬飼道子の叫びにもかかわらず、日本の政治も社会も、難民を拒絶する。
入管に閉じ込められている難民を見よ。