「黒焦げの弁当」 8月6日

 

 8月6日、カンカン照りの暑い日だった。私は国民学校二年生、大阪の南河内、祖父母の家に疎開して暮らしていた。その日、ぼくは家の裏に接する仲哀天皇陵の濠に入って、遊んでいた。原爆投下があったというニュースも知らなかった。

 初めて広島の原爆資料館を訪れたのは、1965年だった。ぼくは中学校教員になっていた。一月、雪のチラつく日、一人で広島に出かけ、独創的な教育を学校ぐるみで実践している中学校を訪れて一日参観し、翌日広島市原爆資料館を訪れた。寒い日で、見学者はほかにはいなかった。展示物を見ていって、ぼくの眼を引いたものがあった。それは、中身のごはんが真っ黒こげになっているアルマイトの弁当箱だった。朝、中学生の少年は、お母さんの作ってくれた弁当を持って勤労動員で家を出たのだろう。そして原爆投下に遭遇した。少年は弁当を食べることなく即死し、持っていたその頃焦げの弁当が残された。

 広島に原爆を投下した米軍の飛行機はエノラ・ゲイ。1992年、アメリカのスミソニアンの航空宇宙博物館は、エノラ・ゲイの機体を復元して、原爆投下50周年を記念して被爆遺品とともに展示することを計画した。その中に「真っ黒な弁当」も入っていた。

 スミソニアンの航空宇宙博物館は、広島の原爆資料館と、「弁当」を作った、少年のお母さんに遺品の展示を要請した。

 「五十年を過ぎた今、力の誇示ではなく、どこまでも原爆の悲惨を訴えることです。そのためにあの弁当箱がいちばん適切であると思うのです。」

 だが自分の子どもを殺した国からの要請であり、親として、怒りと苦悩と葛藤は一通りではなかった。