終戦の日のこと

 

    僕は青年の頃、串田孫一の山野の随想集をよく読んだ。

    彼は30歳の頃、大学で教鞭をとっていて、東京大空襲に遭い、山形県新庄から一時間ばかり秋田の方に入った荒小屋という部落に移り住んだ。米軍の空襲は全国に及び、東北地方でも主要都市は空襲で焼けていた。串田は、荒小屋という山村の、条八さんという人の部屋を借りた。その村の若者たちは全員と言ってもいいほど兵隊にとられ、若者はいなかった。国民もまた「撃ちてしやまん」と、政府に合わせて戦意高揚をとなえながら、「兵隊にとられる」と言うこの受身形の言い方は、日本の庶民のホンネをあらわしている。串田は、条八さんの田畑の手伝いをした。ニワトリは庭を歩き、もみ殻の山の上をついばんでいた。

    村人たちは夜になると丈八さんのところに集まってきた。村人は、孫一に、「この戦争は日本が勝つのか負けるのか」と質問した。串田は返答に窮した。どう考えても、勝つとは思えなかった。串田の話を村人たちは真剣に聴いていた。この村は、そんな話も堂々と言うことができるところだった。「非国民」だと、言う者はいなかった。

    以下、串田孫一の文章。

    「八月十五日、正午に、重大放送があるから聴くようにと、伝達が町から来た。雑音で聴きとることの無理なラジオが丈八さんの家にあり、部落の人たちは集まって来た。

 実は放送はよく聴き取れなかった。どうも戦争が済んだらしいので、僕は喜びを隠しきれず、『これで、みなさんのお宅の方々も戦地から帰ってくる』、と言うと、みんなも、『そうなのか』と喜び、『モチでもつこう』と言う者もあった。

    僕は奉公袋を持ってきて、在郷軍人手帳を、炉の中にくべて焼いた。なんだか部落の人たちも明るい表情で喜び合っていた。新庄の町の方では、すっかり沈み込んでいたらしいが、荒小屋ではそんなことを言ってがっかりしたような顔をするものは一人もいなかった。後の世がどうなるのか分からなかったが、これで助かったと思った。

    戦争は終わった。終わり方が遅すぎたが、晴れ晴れとした気持ちをあまり露骨にあらわすのも具合が悪くて、そのまま森の方へ歩いていった。夏草の生い茂る小径が、今まで見られなかった明るさを見せていた。緑が金色に光っているようだった。」

 

    終戦の日、ぼく小学2年生だった。暑い干天の毎日、外でも裸足で遊ぶ生活だった。南河内藤井寺、墓地の隣の祖父母の家、家の前は、大きな農業溜池が三つ並び、夏の日盛り、水の表面には雷魚がたくさん浮かび、ウシガエルがボウボウと鳴いていた。セミがジャンジャンと鳴き、キリギリスは草むらで、チョンギースと盛んに鳴いている。終戦のニュースは、夜、父が仕事から帰ってくるまで知らなかった。