大木実の詩に、「海戦のあと」という散文詩がある。彼は、太平洋戦争でアメリカ軍に撃沈された巨大戦艦「武蔵」の謎を詩に書いた。当時、日本海軍は、「大和」と「武蔵」、二隻の世界一の巨大戦艦を有していた。敗戦色濃き戦争末期、「武蔵」は1944年10月24日、フィリピン沖海戦で撃沈され、「大和」は翌年の4月7日、沖縄戦に向かい、空からと海からの猛攻撃を受けて撃沈された。
大木実の詩、「海戦のあと」とは、どんな詩だったか。
海戦のあと
戦艦「武蔵」がシンプサン海に撃沈されたあと、三時間後、駆逐艦
によって救助された生存者は半数の千三百名であった。彼らのほと
んどは裸であり、一人残らず素足であった。「武蔵」沈没の秘密保持
のだめ、生存者はコレヒドールに運ばれたが、彼らの所属はもはやど
こにもなかったのだ。
生存者のうち、半数は台湾と内地へ還されたが、途中、輸送船が
撃沈され、そのうち半数が水死した。現地に残された半数は、それぞ
れ分散されて現地部隊に編入されたが、爾後の戦闘で数名を残して
ほとんどが死んでしまった。
戦史を読むと、戦史の多くは戦闘の激烈と日本海軍の壊滅を伝え
ながら、なぜか海戦のあと、生存者はどうなったのか、そのたどった運
命について触れていない。爾後の人間の運命などは、とるにたらぬ些
小事にすぎぬというのであろうか。
たまたま私はある書を読み、「武蔵」生存者のたどったその後の苛烈
な運命を知り、強い怒りと言いがたい哀しみに心が痛んだ。
彼らもまた――幸運にも生き残りながら、死んでゆかねばならなかっ
たのだ。「武蔵」沈没とともに、彼ら生存者も、その生存を抹殺されねば
ならなかったのだ。
<この詩は散文詩なので行分けしていない。 爾後(じご)=その後>
大木実は大正二年に生まれ、七歳で母が亡くなり、十一歳の時に関東大震災が襲い、義母、弟、妹も死んでしまった。昭和十六年、二十八歳で結婚、そのすぐ後に召集を受ける。入隊して外地に赴く。命は助かり、敗戦翌年にサイゴンから帰還した。