スペシャル・ミール


人生の最期の食事に、
「食べたいものは何でも準備するよ、何が食べたい?」
と言われたら、自分なら何を言うだろう。
朝刊で、藤原新也が、死刑囚が明日は死刑が執行されるという前日の夜の食事のことを書いている。最後に食べたいものを自分で注文できる。アメリカではそれをスペシャル・ミールと呼ぶのだと。
そうすると死刑囚が注文するのは、
フライドチキンやステーキ、
ホットチーズサンドイッチ、
チーズ、パイ
目玉焼き、
など、平凡な庶民のそこらの食べ物ばかり。なかには、ケンタッキーフライドチキンという銘柄まで指定する人がいた。
 そこで藤原が書く。
「人間とはそういうものだ。小さい時から慣れ親しんだ平凡だが思い出にからんだ食べものこそ舌が求める。」
貧困や暴力、疎外や孤独の暮らしの中で生きてきた人は、特別なおいしい食べ物として世に言われているメニューなんて、口にしたことがない。多くの死刑囚が食べたいと言うのは、日本の場合なら何だろう。マクドナルドのバーガーか吉野家の牛丼か、と。
そして藤原が、自分の最期の夕食の注文を許されるなら、と書いたのは、
大根の葉の漬物の千切りに、オカカをまぶし、醤油をかけ、メシに混ぜ込んだもの。
どうしてそういうものを注文するかと言えば、
「幼稚園に上がる前、私は真夜中に母に空腹を訴えた。母は困った顔をしていたが、台所に行き、ありあわせのメシとお茶を運んできた。」
それが、大根の葉の漬物の千切りに、オカカをまぶし、醤油をかけ、メシに混ぜ込んだもの。
「子ども心に世の中にこんなにおいしいものはないと感じた。」
食べものとはそういうものだ、高級懐石料理とかフランス料理のフルコースとかではない、と。
子どものころに、親が作ってくれた食事、それをおいしいと思って食べたこと、身体と心が感じた食べもののうまさ。そこにはそれを用意してくれた人の愛情がこもっている。
そして藤原は、自分の兄が最期に、食べたものを書いている。
兄は59歳でガンで亡くなった。流動食しか受け付けない兄が、イカソーメンに箸をつけて食べたという。それは奇跡だった。
「私はその小さな奇跡を横から眺め、目頭が熱くなった。門司港で生まれた私たちはよくイカを釣りに出かけ、その場で千切りにして醤油をかけて、おやつがわりに食べた。最後の食卓で兄の記憶がよみがえったのかもしれない。」
この文章を読んで、二つのことが頭をよぎった。
ぼくが教えていた男子生徒がこんなことをぼくに聞いた。
「先生、今晩何を食べますか。」
「今晩? 何かなあ。奥さんが作ってくれるから分からないなあ。」
どうしてそんな質問をするの? 不思議に思って聞くと、
「母親に食事を作ってもらっていない」と言った。
毎日コンビニで買ってきて食べるのだと言う。そこでぼくは自分で作れば? と言って、肉じゃがとかいくつか作り方を教えた。弟もいるから弟の分も。
彼の子ども時代の「母の味」とは何なのか。結局彼の食べ慣れたものはコンビニの弁当になるのだろうか。
頭によぎった二つ目は、新聞に報道されている大物政治家の食事だ。膨大な政治資金。それが彼らの食事代になっている。「交際費」「会議費」の名目で、超有名ホテルで飲み食いしている。麻生が代表を務める政治団体の支出はこの二年間で、39850000円。そのうち16700000円を会員制クラブでの飲み食いだ。稲田朋美防衛大臣の場合、ダントツで増えている。
庶民とはあまりにもかけ離れた、大物政治家の豪華な食事。自分の懐とは関係なし、じゃぶじゃぶおいしいものが食える王様暮らし。これが民主主義日本の政治家。
彼らにスペシャル・ミールは? と聞いたらなんと応えるだろう。
「お茶漬けだよ」