野村哲也先生



 野村哲也の名前を見つけたのはこの夏だった。野村先生はこの二月に逝去されていた。同姓同名の人がいるかもしれないが、たぶん間違いないと思う。大阪教職員互助組合の退職者向けの通信誌が定期的に送られてくる。そこに大阪府の教職員だった人の訃報欄がある。ああ、あの強健な野村先生も逝かれたか、いったい何歳だったのだろう、九十歳に近かったのじゃないか。先生はぼくの高校時代の担任で、社会人山岳会である関西登高会の主要メンバーだった。野村先生に連れられて、高校三年の夏休みに、初めての北アルプス剣岳に登った。大学一回生のとき夏の穂高と白馬岳、冬の唐松岳に登った。家へもよく遊びに行った。行くと、グリーグのピアノコンチェルトやチャイコフスキーのコンチェルトが奥の部屋から聞こえてきた。この先生の影響で、ぼくは山を始めたのだった。高校二年生の時、野村先生は関西登高会の冬の遠征で北海道日高山脈のペテガリに登られた。その翌年は冬の前穂高東壁にアタックし、奥又白で隊員が雪崩によって遭難死した。大学二回生になる春、ぼくは関西登高会の御在所岳藤内壁合宿に参加して、岩登りの腕を磨いた。たくさんの若い会員が集まってきていて、野村先生は岩のルートの難易度を勘案しながら、ザイルパートナーを決めて、岩に向かわせた。
 初めての剣岳登山のときに暴風雨に揺れるテントの中でも、野村先生は人生論や恋愛論を語った。授業のなかでも、生き甲斐や生きる目的や、愛することなどについて語った。「好日山荘」や「山の店」のある大阪市中之島の近くにあるクラシック音楽喫茶「日響」を教えてくれたのも野村先生だった。静かな音楽喫茶のなかで、コーヒーをのみながらショパンのピアノコンチェルトを聴いた。
 関西登高会の新人会員だった辻君とは、会の御在所合宿と野村先生との雪の唐松岳登攀で親しくなった。その辻君は翌年、関西登高会の穂高奥又白合宿に参加し、前穂東壁に先輩ベテランクライマー二人とザイルを組んで登攀中、ビバークの岩棚で凍死した。岩壁での一夜、吹雪に襲われ、精神状態が不安定になり、着ているものを次々脱いでいって死んだ、とぼくは野村先生から聞いた。先生の最高潮の時は、ヒマラヤ遠征時代だろう。ビッグホワイトピ−クの隊長をつとめられた。
 野村先生からは多くの影響を受けた。なによりも生き方としての影響が大きい。野村先生と最後に会ったのは、1970年だった。それからぼくは教育実践や社会運動に埋没し、気がついて野村先生の消息を尋ねてみたときは2000年になっていた。30年の年月を経て、住居も変わり、教職も大学に勤めておられたことは分かったが、退職以後のことは分からなかった。何とかして会ってみたいと思いながら、月日は流れた。そして目にしたのは、互助組合通信の「お悔やみ申し上げます」という訃報欄だった。今年の2月までは野村先生は確かに生きておられたのだ。
 老いたるドウショウは、老いたる先生に会いたかったです。