蝶ヶ岳に登ってきた<3>

 窓の外が明るくなっている、5時半ごろだ。日の出は6時過ぎだから起きることにした。一夜、寒くはなかった。
 外に出ると、東の空が紅く染まっている。御来光を拝み、カメラに収めようとする人たちのシルエットが稜線に並んでいる。ぼくは反対側の西の斜面に行って穂高山群のモルゲンロートを眺めることにした。背後から日が昇ってくる。穂高山群と槍の岩峰のてっぺんが明るく染まり、日の当たる山肌はみるみる下へ明るさを広げていく。壮大な快晴、雲ひとつない。
 昨日の夕方はよく見えなかった穂高の枝尾根もよく見える。蝶ヶ岳から奥穂高岳までの直線距離は7キロメートル。前穂高岳から伸びる北尾根、東壁の岩肌。関西登高会の3人パーティが奥又白谷から冬季の登攀を試み、新人の辻君が登攀途中で凍死した、1957年の冬を思い出す。辻君とは一緒に雪洞を掘って唐松岳に登ったことがあった。

 噴火した御嶽の噴煙が、垂直に上がっている。無風の印。たたずんでいつまでも山を眺める。
 朝食をとってから、みんなで蝶槍まで尾根を散策した。なだらかな尾根道、高山のお花畑の草はすでに何回か降った雪や凍結のために枯れている。
 「奥穂高小屋のある白出のコルから涸沢カールへまっすぐ下りている細い岩稜が見えるでしょう。あれはザイテングラードですよ。下のほうで斜め右に下りていく道が見えますねえ。ザイテングラードを走って下りるタイムの記録にチャレンジしたことがあったよ、学生のころ」
 思い出話が口に出る。槍の北鎌尾根はのこぎりの刃を見せている。
 「加藤文太郎はあそこで遭難したんや」
 「加藤文太郎、雪の中に寝て、朝に雪のなかからもくもく起きてきた話があるね」
とケイ君。
 「よく知っているねえ」
 Tさんがコンロで湯を沸かしコーヒーをいれてくれた。槍穂高を眺めながら、コーヒーを飲む幸せ。Hさんがケイ君に言っている。
 「この景色を見ると帰りたくないですね。ケイさん、もう山やめられなくなりますよ」
 ぼくはケイ君とぶらぶら歩きながら、いろんな話をした。
 「戦争が終わった翌年1946年からねえ、ぼくはすごいと思うんだなあ。あの生きることもままならぬ時代だよ。戦時中は山登りなんかできなかった、それができる自由な時代になったとたんに、積雪期の北アルプス全山縦走をやる山岳会が現れるんだからねえ。木綿の重いテントをかついで、何を食べて歩いたのか、人間ってすごいもんだ」

 山へのあこがれが、爆発したとしか言いようがない。それから登山熱はますます拡大していった。ぼくが初めて剣岳に登ったのは高校3年のとき1955年で、担任の野村哲也先生に連れられ、同級生の南口繁明といっしょに登った。野村哲也先生は関西登高会のメンバーだった。ぼくはザックやピッケルは学校のを借り、靴は運動靴、シャツはカッターシャツだった。それで剣沢の雪渓から長次郎の雪渓を登った。翌年キャラバンシューズを購入し、南口と二人で槍穂高の縦走をした。1958年には、穂高で一週間の大学山岳部の合宿をして、それから剣岳まで縦走隊を組んで全山縦走をした。
 「山へのあこがれは、すごかったねえ。大阪から夜行列車で信州に入るんだけど、列車は満員、大阪を夜9時ごろ出発した列車が名古屋駅に夜中に到着すると、駅のホームに乗り込んでくる登山者がいっぱいいて、一群が輪になって山の歌を歌っているんや、すごい熱気やったなあ。ケイ君、こんな歌知ってる?」
 そのときぼくは法政大学山岳部の歌を思い出した。自分の大学ではないけれど、当時その歌は多くの山人に愛され歌われていた。いい歌は、垣根を越えて広がるものだ。ぼくは歌の一番を歌ってみた。
 「雪は消えねど春はきざしぬ/風はなごみて日は暖かし/氷河のほとりを滑りて行けば/岩陰に咲くアルペンブルーメ/紫匂う都を後に/山に憧るる若人の群れ」
 よく歌った好きな歌だった。ケイ君は、
 「山へのあこがれは、すごかったんですねえ」
と言った。
 9時半、ぼくらは下山を開始。見飽きぬ大パノラマに別れを惜しみ、同じ道を下る。Hさんから借りたストックを左手に持ち、右手に自分のストックを持って慎重にバランスを保ちながら悪路を下っていった。こんなに長い道だったかなあと何度も思う長い道。まめうち平で昼食のパンをかじる。
 それから5人で歌を一首つくろうと、歩きながらみんなでワイワイ歌をひねる。
 「ぼくが最初の5音、ケイ君がそれを受けて7、拓也が5、TさんとHさんが7,7で、57577でまとめる」
 下山しながらいくつか歌が生まれた。
 「名歌ができたー」
とぼくは叫んで歌を朗誦。三股に着いたら2時半を回っていた。
大阪からやってきたHさんとTさんは、車で大阪に帰っていった。お疲れさん。二人とも登山とマラソンをしているだけに、健脚だった。