ピッケルの思い出



部屋の壁に立てかけたままの1本のピッケルがある。
夫の遺品として大切に持っておられた方から、いただいたものだ。
いつか再びこのピッケルをもって雪の山へと思いながら、とうとう1度も使わずに今に至った。
山への想いは、熾き火のように残っているが、月日は流れ過ぎ去っていき、ピッケルを使う山行はどんどん遠ざかっていくように思える。


初めてピッケルというものを握ったのは、高校3年の夏だった。
登山部員だった級友の南口が、
「夏休みに剣岳に一緒に登らないか」
と、ぼくを誘った。
ぼくは登山部員ではなかったが、南口とは親しかった。剣岳登山のリーダーは学級担任の野村先生だ。
野村先生は登山部の顧問であり、社会人団体の関西登行会の会員として、登山界で活躍していた。
我が家には登山に行くような経済的余裕はなかった。
が、登山道具すべて部のものを使うし、費用は学割の交通費と食費少々と南口が言うから、
初めての北アルプス登山に加わることにした。
参加生徒は1年下の部員を合わせて生徒3人と先生の4人パーティになった。
ぼくは日常着に、靴はズック靴というとんでもない服装の上に、借用キスリングザックをかついだ。
そしてピッケルというものを手に持った。
ピッケルを持つと、ちょっと得意な気持ちになった。
ピッケルの金属部分には、アルピニストという銘があった。
大阪から富山まで夜行列車、弥陀ヶ原入り口の弘法小屋でバスを降りると、そこから高原地帯を登った。テントをはったのは地獄谷。
暴風の吹きすさぶテントのなかで野村先生と文学談議をして一夜を過し、翌日は雷鳥沢を登って剣沢の小屋前にテントを張った。
3日目、剣沢の雪渓を下り、長次郎谷の雪渓を登る。
急峻な雪渓の上から温風と冷風が交互に吹き下りてくる。
ピッケルを突きさすとざらめ雪にあいた穴は青かった。
まだピッケルの本格的な使い方は教えてもらえなかった。
登りつめれば頂上だったが、ガスが深くなり、登頂しないで引き上げた。
初めてのアルプスだった。


翌年の夏は、登山部後輩たちと野村先生リーダーに白馬大雪渓を登り、白馬大池まで縦走した。幕営2泊。
それから10日後に、今度は南口と二人で槍ヶ岳から大キレットを縦走して穂高の涸沢に入り、野村先生のパーティに合流した。
ぼくは大学1回生だった。
この二つの山行で、初めてピッケルを使ったグリセードや、滑落したときの止め方を野村先生から教えてもらった。
夏の堅い雪の斜面を自由自在に、スキーをするように滑り降りるグリセード。
ピッケルを左の体側から後ろ下に伸ばし、右手で柄の上部を握る。
左手は柄の中ほどを握って、ピッケルの先端の石突きを雪に食い込ませ、
両足のかかとを立てて、雪の斜面を滑り降りていく。
滑落停止は、いろんな滑落の場面を想定して、脚から落ちていっても、頭から落ちていっても、体をストップすることができるように練習した。
頭からあおのけに落ちていっても、足で雪を蹴って、頭が上になるように体勢を変え、胸の下に構えたピッケルのピックに体重を乗せて雪に差し込む。
それを数秒のうちに行なわねばならない。
ザラメ雪が、飛び散る。
岩峰の奥穂高岳頂上真下に、奥穂高小屋がある。
その直下の急傾斜の雪渓でも練習をした。
ピッケルで止めることに失敗すれば、雪渓下のガラ場に突っ込んで命がない。
ピッケルは、命を救う。
そのことを身体で覚えた。そうすると、手に握るピッケルに愛着がわいた。


あるキャンプの夜、野村先生が、中河与一の小説「天の夕顔」の話をしてくれた。
ぼくは早速「天の夕顔」を読んだ。
人妻だった女性への、学生だった主人公の恋は二十余年つづく。
心と心の結び合いだけで深めていった純愛。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に並ぶ名作と言われ、英、仏、独、中国語など六カ国語に翻訳されたという。
小説のなかに、確か針の木の大雪渓だったと思う。
女性への想いを胸に秘め、山小屋にこもった男は、グリセードする場面があった。
ぼくのなかに山への情熱が点った。


その年の秋、大学山岳部に入部した。
翌春、山岳部の積雪期富士登山があった。
まだ装備を整えていなかったぼくは、先輩から借りた山靴を履き、ピッケルも借りた。
1合目から積雪のあった、豪雪の富士、5合目の無人の佐藤小屋で泊まって、ピッケルを突いて頂上を目指す。
8合目、頂上はすぐ目の前だったが、先輩は大事をとって下山の指示をした。
富士の蒼氷は見られなかったが、ピッケルが堅雪に突き刺さりにくくなっていた。


ピッケルを買いたい。
アルバイトをしてかせいだ金で、買ったのは札幌の門田のピッケルだった。
仙台の山之内か門田か、と言われていたが、山之内には手が届かなかった。
購入したピッケルの柄に亜麻仁油を塗って、部屋に置き、ときどき手に取る。
ピッケルは、ぼくの山の同伴者になり、守護者になった。



それから30余年、人生の大転換のなかで愛用のピッケルは消えた。
そしてやってきたのが今のピッケル
かつての活動の同志だった人の夫が愛用していたピッケル
スイスアルプスから帰ってきて後に、彼女の夫は急逝した。
彼女は、遺品の中のピッケルだけは、放さずに持ち続けたが、
生き方についての想いがあったのだろう、ぼくに贈ってくれたのだった。
彼女は、その後再婚したと聞いた。
いただいたピッケルには、シャモニーのシモンの銘があった。
1860年代からの鍛冶屋だったシモン兄弟のピッケルは、フランス、シャモニーの谷で生まれた。
学生時代から、憧れて買えなかったシモンのピッケル
このまま眠り続けるピッケルを見ると、いささか心がいたむ。