「冬の夜」という童謡がある。子どもの頃から好きな歌だった。
「ともしび近く きぬ縫う母は
春の遊びの 楽しさ語る
居並ぶ子どもは 指を折りつつ
日数かぞえて 喜び勇む」
続く歌詞は、一番、二番とも、
「いろり火は とろとろ 外は吹雪」。
美しい曲で、何とも懐かしくなる。この歌は、明治45年3月、尋常小学校唱歌に採用され、歌い継がれて、1999年8刷発行の「野ばら社」の「愛唱名歌」にも載っている。作詞者作曲者は不詳となっている。
この歌の二番は、
「いろりの端に 縄なう父は
過ぎしいくさの 手柄を語る」
そして、それを聞く子どもたちは、
「眠さを忘れて こぶしを握る」。
「父」の「いくさ」とは、日清か日露の戦争だろう。「父」は「手柄」を立てた。その「手柄」とは。
敵陣地を攻撃して、そこを占領した。
敵との戦闘で勝利を得た。
敵兵をたくさん殺した。
ここでの「手柄」はそういうことだろう。子どもたちが「こぶしを握って」聞くということから、どきどきはらはらする武勇伝に違いない。「手柄」を立てたお父さんは、子どもたちにとっては英雄だ。
こうして明治、大正、昭和の初期の子どもたちは育った。成人すると、
勝ってくるぞと 勇ましく
誓って故郷(くに)を 出たからは
手柄立てずに 死なりょうか
進軍ラッパ 聞くたびに
まぶたに浮かぶ 旗の波」
(露営の歌 1937年9月)
歌いながら兵士たちは戦地へ向かった。
子どもは英雄が好きだ。武勇にあこがれる。「祖国を守るのだ」「正義はわれらにあるのだ」という「大義名分」が加わり、戦争の美化、正当化が生まれた。兵士たちは「正義の戦争」を信じて戦地へ行った。しかし軍隊と戦場はとてつもない凄惨な世界だった。
明治から1945年の敗戦まで、生まれ育った子どもたちは、学校で教えられ、幻を信じ、戦争の「ありのまま」を知ることはなかった。兵士は「殺すもの」であり、「殺されるもの」であるという実態を認識することがなかった。想像することがなかった。「敵」は「殺すべきもの」であり、「殺されて仕方のないもの」であった。
1945年以前に戦地から帰還した兵士が、武勇伝として「百人切りをした」と誇らしげに語った。その当時は何もとがめられず、当事者は罪の意識も感じないようだった。殺した数が多ければ多いほど英雄になる。そういう社会になっていた。
敗戦後、復員兵士はこのような武勇伝を語らなくなった。戦争犯罪者として裁かれる恐れがあり、彼らは口をつぐんだ。軍の組織的残虐行為も隠ぺいされた。
新船海三郎君から「戦争は殺すことから始まった 日本文学と加害の諸相」(本の泉社)という新著が送られてきた。一気に読了した。あらためて凄惨を極める日本の加害の実態がぎりぎりと胸に迫った。膨大な資料、文学作品を読み込み、そこから日本の戦争と兵士の実態を浮かび上がらせたこの労作にかけた執念はすさまじい。日本軍が何をしたか、人間とは何なのか、多くの文学作品を通じて、問題を提示してくれたことに感謝する。たくさんの人に読んでほしい貴重な書だ。
著作の中にこんな事実が紹介されている。「殺すこと」を当然としている軍のなかで、上官の「殺せ」という命令に従わなかった兵士の記録である。(「歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵」岩波現代文庫)
銃剣で中国共産党八路軍の捕虜を突き殺せと命令された。新兵たちはそれを実行し渡部良三の番が来た。彼はキリスト者であった。どうしたらいいのか、彼は神に祈った。その時の状況を、次のように語っている。
「黄塵来襲前に聞く大地の深処でとどろく重くこもったような音と、自分の体全体が巨大な剣山ではさみつけらたと思うような激痛とともに、神のみ声を聞いた。
『汝、キリストをみよ。すべてキリストに依らざるは罪なり。虐殺を拒め。生命をかけよ』
そうだ、この道しかない! 拒否以外に選択肢はない。殺すものか。」
彼は実行する。渡部は戦場で短歌を詠んでいた。それを紙に書き留めたのは便所の中だった。
刺し殺す捕虜の数など案ずるな言葉みじかし「ましくらに突け」
「刺し殺す捕虜の数など案ずるな」「ましくらに突け」、上官の非情な命令だ。
渡部は捕虜の様子を詠う。
憎しみもいかりも見せず穏やかに生命も乞わず八路死なむとす
生命乞う母ごの叫び消えしとき凛と響きぬ捕虜の「没有法子!」
処刑の様子を中国の民衆は見ていたのだろう。殺される捕虜の母がその中にいた。母は、日本兵に「殺さないで、助けて」と命ごいの叫び声をあげたのだ。それを聞いた捕虜は、「没有法子!」と叫んだ。新船は、この中国語を、
「よんどころない、仕方がないという意味だが、この場合はどうであったか。いやそれよりも、その言葉を渡部はどう聞いたのか、渡部の胸中も『没有法子!』ではなかったか。」
渡部はその瞬間を詠っている。
殺されし八路とともにこの穴に果つるともよし殺すものかや
殺された八路軍の兵士と一緒に、自分も死体を落とす穴に果ててもよい、殺すものか。
命令拒否の結果は毎日毎夜の凄惨なリンチであった。死以外のすべてのリンチが加えられた。
その捕虜処刑の様子を村びとたちが見ていた。「渡部」という新兵が捕虜を殺すことを拒んだというニュースは村のなかに電撃のように伝わっていった。そのとき村人のなかから、「渡部」と呼ぶ声が次第に増えていったというのだ。「渡部」は中国語で「トゥプゥ」と呼ぶ。
むごき殺し拒める新兵(へい)の知れたるや「渡部」を呼ぶ声のふえつつ
「トゥプゥ」「トゥプゥ」,村の中から、渡部を励まし、渡部に感謝し、渡部の身を案ずる声が起こったというのだ。
小さき村の辻をし行けばもの言わず梨さしいだす老にめぐりぬ
渡部がどんな仕打ちを受けるかも、村人たちは察していた。リンチを受け続けた渡部が村を行くと、渡部に無言で梨を差し出す老人がいた。渡部を見て、ほほえむ村人がいた。
この戦場の様子から、日本軍は中国の民衆が暮らしている中へ入っていって、戦闘を拡大していったことが分かる。
新船君のこの著書において、この話はもっとも胸に迫った。「歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵」を読まねばならないと思う。そして堀田善衛の「時間」をも。
新船君は、あとがきにこんなことを書いている。
「日本文学は、あの戦争で兵士がどれほどひどい目に会ったか、庶民はどれほど巻き添えになり、嘆き悲しんだかを無数に書いてきた。しかしそれ以上ともいえる悲嘆、憤怒、絶望を、中国・朝鮮はじめアジアの人たちに与えたことについては、ほんの数えるほどしか書いてこなかった。……大岡昇平が「俘虜記」で描いたように、彼は敵兵を目の前にして引き金を引かなかった。しかし多くの場合、殺すときは人間でなくなった時だとしてきた。戦争だからやむを得ない、戦争は人間を狂気にする、命令に従っただけ……、はたしてそうなのか、あれは人間の仕業ではなかったのか。では、人間とは何なのか。」