戦争論 11

 

 新船海三郎君は、これまでの世に出ている膨大な戦争文学を読み、「戦争は殺すことから始まった」という著書を出版している(「本の泉社」)。

 「黙殺、忘却、無視‥‥は過去のことではない。現代日本もそうである。私たちは屑籠をあさってでも、引っ張り出して、その加害をあらためて認識しなければならない。」

 新船海三郎君は、戦争文学、記録をかたっぱしから読み込んで、日本軍の蛮行について考察した。

 戦後日本は、戦争責任の追及をあいまいにしてきた。、だが、戦争犯罪、その責任は消えてしまうわけではない。堀田善衛は「時間」という作品で、中国南京を侵略した日本軍の、暴虐の限りを尽した犯罪を、中国人の陳英諦の眼であばきだし、人間とは何かを問うている。

 

 「何百人という人が死んでいる。しかし何という無意味な言葉だろう。数は観念を消してしまうのかもしれない。これほどの人間の死を必要とし、不可避的な手段をなしうべき目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれからまだ死ぬのは、何万人ではない。一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万人にのぼったのだ。何万人と一人一人、この二つの数え方の間には、戦争と平和ほどの差異がある。」

 「自分自身と闘うことのなかからしか、敵との闘いのきびしい必然性は見出されえない。この原理原則にはずれた闘いは、すべて罪悪である。南京だけで数万の人間を凌辱した人間たちは、彼ら自身との闘い、その意志をことごとく放棄した人間たちであった。」

 

 新船は、この論の中で考える。

 「人間は、占領され隷属化されても、生きることを考える。その際、本能的な愛国心などというありもしない情緒的「悪」を組織し、それをもって戦争に駆り立ててはならない。

人間は予想を超えて悪逆非道を行うものだ。それを戦争だからと、肯定してはならない。‥‥

 希望は、担うに重い荷物なのだ。われわれは死ぬまでこの荷物を担ってゆく義務がある。義務は、私が私に課したものだ。その重さに耐えられず、ひるみそうになる自分と闘わなくてはならない。そこからしか、敵との闘いの厳しい必然性は見出されない。」